安田義定
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安田 義定(やすだ よしさだ、長承3年(1134年) - 建久5年8月19日(1194年9月5日))は、平安時代末期 - 鎌倉時代初期の武将。甲斐源氏・源義清の四男。兄源清光の養子。源義定(みなもと・の・よしさだ)
1180年、源頼朝が挙兵すると、兄の武田信義らとともに甲斐で呼応して挙兵した。義定は駿河国で目代橘遠茂らと戦い破る。黄瀬川で頼朝の軍と合流。富士川の戦いにおいて、めざましい戦功をあげ遠江守護となる。
1183年、源義仲が平家を破り上洛すると、これに加わり京中の守護をし、遠江守に任じられる。その後、義仲から離れて、再び頼朝方に加わった。1184年、宇治川の戦いで源範頼、源義経の軍に参加し、義仲を滅亡させた。
1184年、一ノ谷の戦いでは、義経の搦め手軍に属し、平経正、平師盛、平教経を討ち取る。1189年、奥州合戦に従軍。甲斐守・下総守を歴任、1192年、遠江守に還任した。
1193年、子の安田義資が院の女房に艶書を送った罪で斬られ、義定も所領を没収される。1194年、義定は謀反の疑いで放光寺(山梨県甲州市)で自害させられた。