孫夫人
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孫夫人(そん ふじん、生没年不詳)は、三国時代の呉の孫堅の末娘とされる人物。孫尚香とも呼ばれるが、これは京劇で使われる名前であり、演義では孫仁とされている。三国志では孫夫人と記されており、諱は不詳。
実在の人物ではあるが正史には非常に記述が少なく、以下特筆していない限り、三国志演義などの小説に基づいた記述である。
性格は気がとても強く、身の回りには常に武装した女性が付き、自身も薙刀を操り常に腰に弓を装備していたことから「弓腰姫」と呼ばれていた。 三国志蜀書の法正伝には、孫夫人の侍女100名ほどは、みな武装して侍立しており、劉備は奥に入るとき常にびくびくしていたと記載されている。
209年に劉備と呉との政略結婚の話の時に初めて孫夫人の名前が出て来る。周瑜の策で劉備の暗殺・新しい妻で劉備を骨抜きにさせる策であったが、劉備の結婚時に共に来ていた趙雲が諸葛亮より授かった策を使い、孫夫人を劉備が連れて帰国させた。 夫となる劉備とは年が30歳近くも違っていたが、孫夫人は劉備のことをとても気に入っていたといわれる。
その後、212年頃に劉備と孫権との関係が悪化した。そこで、張昭と魯粛の策で彼女の旧臣である周善という者を派遣させ、孫夫人の母が危篤との知らせを聞き、阿斗(後の劉禅)を引き連れて呉に帰国しようとしたところで、趙雲と張飛によって周善は斬られ、阿斗を奪い返したので、彼女はそのまま、呉に帰国した。呉に帰国した孫夫人はその後、再婚せず、222年に夷陵の戦いで元夫であった劉備の戦死の誤報を聞いて、絶望して長江へ身を投げたとされる。
正史の先主穆后伝では「先主が益州を平定した後に、孫夫人は間もなく呉に帰国した」とのみしか記されておらず、その後の彼女の行方は一切わからない。