子供観
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子供観(こどもかん)とは、子供とは如何なる存在か、子供に如何なる子供時代を与えるか、を問う視点を指す。
中世以前や、開発途上国など、貧困のため子供に成長する権利を保障できない(子供に労働を要請せざるを得ない)社会では、ほとんど問題にならない。子供はおとなの未熟な姿に過ぎず、家督相続や一家の労働力の問題として語られる場合が多かった。
子供観を最初に問うたのは、ジャン・ジャック・ルソーであり、18世紀のフランス社会を舞台にした「エミール」が、現代もなお教育学部でバイブルのように扱われている。
日本の場合はどうか。
戦前は、大正時代の「赤い鳥」に見られるように、上流階級では、子供観が芽生えていた。私立小学校では、純真無垢の象徴として半ズボン制服が採用されていた。しかし、庶民層では、丁稚奉公に見られるように、一家の労働力として子供が見られる場合が多かった。
戦後は、戦災孤児が、やむを得ない存在として存在していた時期もあるが、児童福祉法を根拠に、保護されるべき存在としての地位を確立していく。戦後復興と共に、働く子供は消えて行き、都市近郊の新中間層の子供が平均的かつ理想的な子供像として描かれるようになる。小学生以下は、成長する権利と、保護される権利を享受する代わりに、おとなに服従する義務、若者と同一視しない可愛い存在である義務を、法律的にではなく社会通念で求められた。男の子は、半ズボン着用が暗に強制された。
しかし、高度経済成長期に生まれ育った子供たちが親になった今、自分たちが子供時代に科された子供観を、まるで跳ね返すような子育てをしている。半ズボン廃絶を推進し、「友達親子」「おとな顔負けの」といった子供観をよしとしている現代は、既に「エミール」では解釈できないものと思われる。現代の急速な子供観の変化を、まるでなきが如く振る舞っている教育学界は、視点を正さねばなるまい。社会心理学の視点では、現代における急速な子供観の変化を、情報の氾濫によって子供に知恵がついたからだとする解釈もある。