太田重正
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太田 重正(おおた しげまさ、1561年(永禄4年) - 1610年9月18日(慶長15年8月2日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。太田氏の一族?。
[編集] 一族
父は江戸太田氏の太田康資とされるが、確固たる証拠があるわけではない。また、兄妹に英勝院が挙がるのだが、こちらも怪しいとせざるを得ない。また、息子に太田正重、太田資宗が挙がる。
[編集] 経歴
重正の父とされる太田康資は江戸城築城で有名な名将・太田道灌のひ孫である。後北条氏に仕えていたが、康資は恩賞の不満から離反(離反の理由には諸説ある)した。しかし、第二次国府台合戦で大敗し、安房国の里見氏の下に逃亡し、のちに里見氏の内紛に巻き込まれて自害したとされている。
重正は父の死後、佐竹義重のもとへ赴き、同地に亡命していた同族の太田資正(岩槻太田氏)のもとを頼って落ち延びたという。のちに京都に移住したともいわれる。
1590年の北条氏滅亡後、関東に移封されてきた徳川氏の家臣となった。死後に息子(とされる)太田資宗が大名に列した。
[編集] 重正の出自の疑義
太田重正の父親である太田康資は、太田道灌の曾孫である。これはほぼ間違いない。しかし、太田重正が、彼の子であるかと言うと、不明である(康資の子の駒千代は後北条氏の人質となり、康資が後北条氏から離反した際に自害し、墓所も現存する)。また、妹の英勝院は一般的には康資の娘とされているが、謎が多い。また、家系図は太田資宗の代に何らかの改竄が行われたとする説がむしろ有力で、定説を見ない。
つまり、現時点の歴史研究で「太田道灌の一族」と確定されているのは、康資までである。