大槻玄沢
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大槻 玄沢(おおつき げんたく、宝暦7年9月28日(1757年11月9日) - 文政10年3月30日(1827年4月25日))は、一関藩(田村藩)出身の江戸時代後期の蘭学者。名は茂質(しげかた)、磐水と号す。『解体新書』の翻訳で有名な、杉田玄白・前野良沢の弟子。「玄沢」とは、師である二人から一文字ずつもらってつけた通り名である。
同じ郷里の医師、建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示した。後に、建部清庵と手紙のやり取りをしていた杉田玄白の私塾・天真楼に学ぶ。1788年(天明8年)、蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立した。後年には、師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、『重訂解体新書』を記している。江戸に、私塾・芝蘭堂をひらき、多くの人材育成に当たった。玄沢の弟子としては、宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と呼ばれた。また、毎年芝蘭堂で「オランダ正月」と呼ばれる西洋の暦に合わせた新年会を開いており、ロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待された。
玄沢以後、大槻氏からは優秀な学者が多く輩出され、「西の頼家、東の大槻家」ともいわれた。玄沢の息子に漢学者の大槻磐渓、孫に国語学者の大槻文彦がいる。養賢堂学頭の大槻平泉も同じ一族の出身。
ちなみに、頼家は頼山陽で有名。