大木惇夫
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大木 惇夫(おおき あつお・1895年(明治28年)4月18日-1977年(昭和52年)7月19日)は日本の詩人、翻訳者。作詞家。本名は軍一(ぐんいち)、広島市天満町(現在の西区天満町)出身。太平洋戦争(大東亜戦争)中の戦争詩で有名だが、歌謡曲の作詞や児童文学作品も多い。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 出生から少年時代
- 生家は裕福な呉服商であったが、彼が物心付く頃には没落しており、貧しい暮らしの中で育った。少年時代に『アラビアン・ナイト』や巌谷小波の『世界お伽噺』を読み、文学者を志す。広島商業学校(現、広島県立広島商業高等学校)の学生時代に世界の文学に親しむと共に、与謝野晶子、吉井勇や若山牧水の影響を受けて短歌を創作する。その後、三木露風や北原白秋の詩を知り、特に白秋に深い感銘を受ける。
[編集] 文壇に出た頃
- 学校卒業後、三十四銀行広島支店に就職するが、文学に対する志望が強く、二十歳の年に上京する。博文館で働きながら、文学活動を行う。この時期に書いた小説が大阪朝日新聞の懸賞に当選している。また、キリスト教の受洗をしている。
- その後、同棲している女性の肺結核の療養のため、博文館を辞めて小田原に引っ越し、文筆活動に専念する。これがきっかけで、当時小田原に在住していた憧れの人である北原白秋の知遇を得る。1922年(大正11年)白秋と山田耕作が編集する『詩と音楽』創刊号に初めて詩を発表した。1924年(大正14年)にはジョバンニ・パピーニ『基督の生涯』の翻訳をアルスから出版し、ベストセラーになると共に、処女詩集『風・光・木の葉』を白秋の序文付で同じくアルスから出版した。その後も、一貫して詩人として白秋と行動を共にした。1930年代後半は歌謡曲の作詞も手がけ東海林太郎の『国境の町』は一世を風靡した。ほかに『八丈舟唄』、『港の恋唄』、『俺は船のり』、『雪のふるさと』など、スコットランド民謡、『麦畑(誰かが誰かと)』他の訳詞も手がけている。
[編集] 戦争中
- 1941年(昭和16年)太平洋戦争(大東亜戦争)が始まると徴用を受け、海軍の宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属された。バンダム湾敵前上陸の際には乗っていた船が沈没したため、同行の大宅壮一や横山隆一と共に海に飛び込み漂流するという経験もしている。
- この際の経験を基に作られた詩を集めて、ジャカルタで現地出版された詩集『海原にありて歌へる』(1942年(昭和17年)アジアラヤ出版部刊、題字 今村均(中将)、序文 町田 敬二(中佐、爪哇(ジャワ)派遣軍宣伝報道部長)、跋文 浅野晃、富沢有為男、大宅壮一)に我が国戦争文学の最高峰ともいわれる『戦友別盃の歌-南支那海の船上にて。』(「言ふなかれ、君よ、別れを、世の常を、また生き死にを、-」)が掲載されている。この作品は前線の将兵に愛誦された。
- この詩集で文学報国会の大東亜文学賞を受賞を受賞すると、作品の依頼が殺到した。この国家的要請に対し、彼は誠実に対応し、詩集『豊旗雲』『神々のあけぼの』『雲と椰子』や従軍記、映画向けの作詞、各新聞社が国威発揚のために作成した歌曲の作詞等を行った。その一方で序文以外にはほとんど戦争色の感じられぬ詩集『日本の花』も編集している。
- しかし、戦争末期には過労が祟って身体、精神共に不調となり、福島県に疎開して終戦を迎えることになる。
[編集] 戦後の不遇
- 戦後は戦時中の愛国詩などによって非難を浴び、一転して戦争協力者として文壇から疎外される。戦争中、彼をもてはやした文学者やマスコミは彼を徹底的に無視し窮迫と沈黙の日が続いた。そのため、戦後は一部の心ある出版社から作品を出版しながら、校歌の作詞等をしながら生涯を過ごした。
[編集] 戦争詩と戦後の評価について
- 彼は太平洋戦争(大東亜戦争)中、海軍の徴用を受けて従軍し、その経験を基に作詩をした。また、帰国後も国家やマスコミの要請に応じて、多数の作品を作った。このような戦争協力は彼だけでなく、当時の文学者や芸術家の多くが我が国国民当然の行為として行ったことである。また、彼は戦争詩を作ったことで多数の栄誉を受けているが、これは純粋に作品が評価されたためのことであり、これは今日でも彼の戦争詩の一部が高い評価を受けていることでも証明される。また、彼自身が戦時中に特権を求めるような行為をした形跡は無く、むしろ、終戦前には過労からノイローゼに近い状態にすらなっている。
- 終戦後の文壇やマスコミは彼を徹底して無視、疎外することで、彼に反論の機会すら与えずに詩壇から抹殺しようとした。同様の陰湿な迫害を受けた人物として、小説家の中河与一、洋画家の藤田嗣治が挙げられる。
- 彼自身も戦争中の活動を『はりきり過ぎた』と指摘されたことに対し『顔から火が出るほど恥ずかしかった。』としているが、これは自分の行為や詩そのものを否定するものではない。『(前略)堂々とわたしをやっつける人がなくて、すべて私を黙殺してゐるから、その向きに対しても、私は答へる術を知らないのである。』と述べている。
- 戦後の一時期、著しく左傾化した文壇で行われた迫害行為から彼は完全に復権したとはいえない。このことはソビエトでボリス・パステルナークが政府から迫害された際に、自由主義の各国で非難の声が上がったにもかかわらず、我が国では文壇が全く反応をしなかったこととなど共に戦後文学史の政治的な汚点の一つともされる。
- しかし、1961年(昭和36年)には依頼により作成した「鎮魂歌・御霊よ地下に哭くなかれ」の詩碑が故郷である広島市の平和公園に建てられるなど、国民の評価は文壇やマスコミとは明らかに異なっていた。
[編集] その他
[編集] 参考文献
- 大木惇夫詩全集(1969年(昭和44年)金園社刊)