大コロンビア
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大コロンビア(だいコロンビア、Gran Colombia)は、1819年から1830年まで南アメリカ北部にあったコロンビア共和国 (República de Colombia) を指す。グラン・コロンビアとも呼ばれる。ベネズエラ、ヌエバグラナダ、キトの連合からなり、その領域は現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、パナマの全域と、ガイアナ、ブラジル、ペルーの一部に相当する。
正式名称はコロンビア共和国だが、1866年以降のコロンビア共和国と区別するために、後世「大」を冠して呼ぶ。現在のコロンビアにあたる地域は、当時はヌエバグラナダという植民地時代の名で呼ばれており、ヌエバグラナダだけを指してコロンビアということはなかった。
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[編集] 歴史
[編集] 大コロンビアの成立
シモン・ボリバルがヌエバグラナダとベネズエラの統一を提唱したのが、大コロンビアの起源である。そのときまでベネズエラとヌエバグラナダは別個に独立を宣言し、スペイン本国と戦っていた。ボリバルは、個々に戦っていてはスペイン軍に対抗できないと主張した。ボリバルはこの構想にしたがって戦い、1819年にアンゴストゥラ(現在のシウダボリバル)でコロンビア共和国を建国し、仮の首都を置いた。ヌエバグラナダが解放されると、首都をボゴタに遷した。当初、コロンビアはボゴタとカラカスの中間にあるどこかに首都を置く計画を持っていたが、実現しなかった。コロンビアは1822年にキトを解放して領土に組み入れた。さらにペルーに援軍を派遣し、ペルーとボリビアの解放で決定的な役割を果たした。
[編集] パナマ会議の失敗と内部対立
ボリバルの理想は南米に統一的な大国家を建設することだったが、武力による領土拡大を是とする思想は持っていなかった。ボリバルは南北アメリカの独立国を招請して1826年にパナマ会議を開いた。ボリバルは対スペイン戦争と統合問題について合意を取り付けたいと考えていたが、他の諸国はコロンビアの強大化を望まなかった。
それどころか、コロンビア内部において分離の動きが加速した。国内では中央集権を望むボリバルと、分権化を求めるサンタンデルの対立が深まった。集権・分権の争いには、人種・階級的な問題も関係していた。ボリバルが考える奴隷制廃止や平等主義は、地方の有産者の反感を買っていたが、そうした思想に正面から反対することは難しかった。分権化すれば権力が地方有力者に回収され、寡頭支配を続けることができると考えられた。また、ベネズエラでは遠く離れたボゴタの下風に立つことを望まない人々が不満を抱いた。
[編集] 大コロンビアの分裂
ボリバルは強権を発動して分離傾向を抑えようとしたが、1830年にホセ・アントニオ・パエスがベネズエラ分離に踏み切ると、事態の収拾は困難になった。アントニオ・ホセ・デ・スクレは、分離を押しとどめようと交渉に赴いたが失敗し、同年中に暗殺された。ボリバルは病気で引退し、やはり年内に死んた。こうして大コロンビアを維持しようとする有力指導者はいなくなり、ベネズエラとエクアドルは分離し、残存部はヌエバグラナダとして再編成した。