多賀竜昇司
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多賀竜昇司(たがりゅう しょうじ、1958年2月15日 - )は、茨城県日立市出身で(本籍は茨城県北茨城市)鏡山部屋所属の元大相撲力士。最高位は関脇。現在は鏡山親方で、本名は黒谷昇。
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[編集] 来歴
小学生の頃はあまりにも元気がありすぎて、5年生の時にサッカーのゴールポストで逆上がりしてポストごと倒れ、顔に17針も縫う傷を負ったりもした。近所の建設業者が柏戸の贔屓だったことで鏡山親方(柏戸)に紹介されて入門。昭和49年(1974年)3月初土俵。多賀竜の四股名は出身中学にちなんだものだった。昭和56年(1981年)1月新十両。昭和57年(1982年)5月新入幕。
昭和58年(1983年)11月新三役(関脇)になったが5勝10敗。その後、低迷が続き昭和59年(1984年)5月に、母が交通事故で亡くなってからは、せめてもの供養にとそれまで以上に懸命に土俵を努め、蔵前国技館で行なわれる最後の本場所となる9月、12枚目まで落ちて負け越すと幕内の座が危なくなるため、勝ち越して幕内に残ることを考えて土俵に望んだが、何と全勝で勝越。しかし、この場所は前場所全勝優勝した大関若嶋津綱とりの場所、しかもこの時点で若嶋津はまだ1敗しかしていない、多賀竜は、成績上は優勝候補に名を連ねるが、やはり氷山の一角に過ぎないと見られていた。14日目にこの2人が星一つの差で対戦することになった。だが、この時困ったのは師匠だった。師匠は当時の審判部長、14日目に多賀竜対若嶋津と小錦対千代の富士の割を組んだことにより千代の富士対若嶋津の割が組めなくなり、若嶋津が優勝しても内容に問題があり横綱にしにくくなってしまった。実は、前の場所千代の富士が休んでいたので、若嶋津は千代の富士と戦わずに全勝優勝したのだ。もし、多賀竜が負けて崩れれば、師匠を困らせたところだった。しかし、多賀竜は見事に勝利、13勝1敗と優勝に王手をかけた。
千秋楽の相手の朝潮には勝てそうにない。ところが決定戦になれば2敗で追って来る小錦と戦うには、不利だと思っていた(この場所の本割では多賀竜の勝ち)という。支度部屋で小錦の対戦相手の琴風と会ったので「大関、がんばってください」と言うと、マジメ1本の大関琴風は「任せておきなさい」と答えた。有言実行、琴風は小錦に勝って多賀竜の優勝が決まった。この「蔵前国技館最後の場所での優勝」という大きな偶然を含む優勝により名を残したとともに、母の供養も果たし困っていた師匠を救うことができた。千秋楽朝潮に負けたが13勝2敗。余談だが大鵬は自分の弟子に優勝力士がいないためこの多賀竜の存在により親方としては柏戸に負けたと思っているらしい。
持病の痛風により、この優勝以外に目立った活躍はできなかったが、1988年には十両で優勝し、若浪に続く「天皇賜杯拝戴者の十両優勝」となった。
晩年は十両と幕内の往復が続き、平成3年(1991年)5月を最後に引退。年寄勝ノ浦を襲名した。平成8年(1996年)12月、師匠没後に鏡山部屋を継承した。長男は鏡山部屋の力士で、「多賀竜2世」の実現に向け関取を目指している。
現在は審判部に所属しているが、平成18年(2006年)の11月場所7日目に珍事が生じている。 土俵下で勝負審判として行方を見守っていたが、豊ノ島と安壮富士との一番で押し出しで敗れた安壮富士が土俵下に転落し、124kgの体重で鏡山審判の右すねを踏んだため、鏡山審判はあまりの痛みに悶絶。「現役時代にも経験したことのない痛み」を味わった。
[編集] 主な成績
- 通算成績:561勝621敗10休
- 幕内成績:321勝407敗7休
- 幕内在位:49場所
[編集] 各段優勝
- 幕内最高優勝:1回
[編集] 三賞・金星
[編集] 改名歴
- 黒谷→多賀竜
[編集] 年寄変遷
- 勝ノ浦昇司(かつのうら しょうじ)1991年5月-1996年12月
- 鏡山昇司(かがみやま -)1996年12月-