土井利恒
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土井利恒(どいとしつね、嘉永元年7月19日(1848年8月17日) - 明治26年(1893年)3月29日)は、江戸時代の越前国大野藩第8代藩主。父は第7代藩主の利忠。正室は下総古河土井家第13代土井利則の娘。従五位上、能登守。明治に至って正四位。子爵。
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[編集] 襲封
土井利忠の三男として生まれる。幼名は捨次郎。文久2年(1862年)4月13日、父利忠とともに江戸へ出発し、5月に正式な嫡子とされ、7月に利恒と改名した。11月6日、利忠は隠居し利恒が相続した。このとき、利忠以来恒例となった藩主直書を大野城に送った。利忠の直書では天保元年(1830年)の大野初入部以来の家臣の忠勤に感謝したうえで、利恒へ一層の忠勤を求め、利恒の直書では当分の間は利忠の政策を受け継ぎ、父に変わらぬ忠勤を要請した。
文久3年(1863年)4月9日、利忠以来の功臣内山隆佐を家老・軍事惣督に任じた。12月8日、利恒は将軍徳川家茂の上洛の供を命じられ、22日京へ出発した。
元治元年(1864年)6月23日内山隆佐が病死した。これがこの年末における天狗党騒動において、大野藩の動向に少なからぬ影響を与える。
[編集] 天狗党通過
11月1日、水戸藩内の抗争に敗れた武田耕雲斎以下天狗党800余名は、京に駐在する一橋慶喜を頼ることに決し、中山道、美濃路を通って京へ向かった。ところが、美濃国鵜沼において彦根藩と大垣藩に抵抗され、そこから北へ転じて越前国へ向かった。
12月1日、福井藩からの急飛脚で天狗党が美濃・越前国境に迫ったことを知った大野藩は混乱した。軍事惣督内山隆佐をなくしたばかりの時期で、また藩主利恒は江戸にあった。残る重臣たちは、藩兵をかき集めても200名ほどしかなく天狗党には到底抗しきれないと判断し、天狗党の予想進路に当たる村落をすべて焼き払うという焦土作戦を決定した。こうして無意味な作戦が実行に移され、12月4日、上秋生村全軒、下秋生村6軒、中島村93軒、上笹又村・下笹又村全軒と、民家203軒が大野藩兵によって焼き払われた。このうち、国境に近い上秋生、下秋生は手違いで天狗党の通過後に放火され、村人の怒りを買った。この焼き討ちは「浪人焼け・西谷焼け」と言われ、居住していた村人の子孫は、今でも土井家関係の祭りには参加しないと言う。
12月5日、大野藩は福井藩と勝山藩に援軍を求め、大野藩兵は後退して天狗党とにらみ合いになったが、後日大野の町年寄布川源兵衛を使者に立て、大野城下を通らないよう交渉させた。結局大野藩が26,000両という大金を軍資金として支払う代わりに天狗党が他領へ去ることで決着した。
[編集] 維新前後
慶応元年(1865年)11月18日、利恒は京都嵯峨及び太秦の警衛を命じられた。明治維新により利恒は官軍に恭順し、明治元年(1868年)4月12日に新政府より箱館裁判所副総督に任命され、9月8日大野藩兵166名を箱館戦争参加のため出発させている。
明治17年(1884年)7月8日には子爵に叙爵された。
[編集] 関連項目
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