司馬朗
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司馬朗(しばろう、171年-217年)は、魏の政治家。司馬錫の末裔、秦末殷王司馬卬の12世代孫、司馬鈞の玄孫、司馬量の曾孫、司馬儁の孫、司馬防の子、司馬懿・司馬孚・司馬通の兄、司馬遺の父、司馬望の養父。字は伯達。
董卓によって洛陽が占拠されたとき、一族を引き連れて郷里に逃げたという。
後に曹操に仕え、堂陽の太守など地方官吏を歴任した。このとき、司馬朗は領民に寛大な政策を執る善政を敷き、領民から慕われたという。このような功績を曹操に認められ、後に中央に戻されて丞相主簿に任じられた。その後は刺史となり、内政手腕を存分に発揮して、領民に善政を敷いて多くの人々から慕われたという。
崔エンは「君の才は弟の司馬懿に及ぶところではない」と司馬朗に語ったが、司馬朗はその言い草に気を悪くする様子もなく、それに同意し、司馬懿の才能を高く評価していたという。217年に夏侯惇・臧覇らとともに呉の征伐に従軍するが、そこで風邪が蔓延し、彼を含めて多くの兵士が風邪をこじらせた。そこで司馬朗は兵士たちに薬を全て分け与え、自分は飲まなかったために病死した。