司馬攸
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司馬 攸(しば ゆう、248年-283年)は、晋(西晋)の皇族。字は大猷。司馬昭の三男で、初代皇帝・司馬炎の同母弟。他に同母兄の司馬定国(遼東悼恵王)と同母弟の司馬兆(城陽哀王)・ 司馬広徳(広漢殤王)らがいた。しかし、皆早世してしまったために、 彼が長兄・司馬炎に次ぐ有力後継者になったという。生母は王元姫(王粛の娘)。
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[編集] 略要
[編集] 生涯
伯父の司馬師の養嗣子となり、司馬師の死後その家系を継いでいた。幼少の頃から武勇に優れ、温厚篤実な性格だったため、また他の兄弟が夭折したこともあり、長兄の司馬炎以上に父から溺愛された。
264年、父・司馬昭は晋王となると、その後継者として司馬炎よりも司馬攸を後継者に選ぼうとしたという。しかし、長幼の序を重んじる重臣一同の反対に遭い、実現しなかった。
265年、父・司馬昭が病死し、兄の司馬炎が後を継いだ。そして同年のうちに司馬炎は魏の皇帝から禅譲を受けて、晋を建国し、その初代皇帝となった。こうなると皇帝になった司馬炎にとっては、亡父や重臣から愛された実弟の司馬攸は邪魔者となる。そこで司馬炎は、司馬攸を中央政治から遠避けるために、斉王に封じた。司馬攸を遠国に封じることを主張したのは、賈充や荀顗であった。特に、賈充は娘が皇太子妃であったことから、司馬攸を中央に置いておきたくなかったのでろう。博学で実直、聡明な司馬攸は、権力志向の強い賈充にとって、まことに取り入りにくい相手であった。この時、博士祭酒の曹志(曹植の末子)を初めとする多くの重臣が、あまりにも弟に対してひどい仕打ちであると諫言したが、容れられなかったという。
283年、37歳で病死。司馬攸は皇帝となった司馬炎よりも、重臣からの信望が厚かったと言われている。
もし、暗愚の司馬炎ではなく司馬攸に家督を継がせていたら晋はすぐに滅びることはなかったであろう。 また、一説では司馬炎もある時に太子の司馬衷が暗愚のために、亡き弟の処置を後悔したともいわれる。
[編集] 宗室
[編集] 子
- 遼東王司馬蕤(景回)
- 北海王司馬寔(景深)
- 斉王司馬冏(景治)
- 広徳王司馬贊(景期)‐夭折
[編集] 孫
[編集] 司馬蕤の子
- 斉王司馬柔之(司馬建之の父)
- 華容王司馬遵
[編集] 司馬冏の子
- 淮陵王司馬超
- 広陽王司馬冰
- 済陽王司馬英
- 燕王司馬幾
[編集] 子孫
- 司馬嵩(建之の玄孫)