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古武弥四郎 - Wikipedia

古武弥四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

古武弥四郎(こたけやしろう 1879年7月12日 - 1968年5月30日)は岡山県出身の生化学、医化学者。

古武弥四郎は明治12年(1879年)7月12日岡山県邑久郡本庄に生まれた。大阪府立医学校卒業後、荒木寅三郎の主宰する京都帝国大学医学部医化学教室の助手、大阪府立高等医学校教諭、ドイツ留学を経て大阪府立医科大学、大阪帝国大学医学部生化学教室教授となり、同医学部長。昭和15年(1940年)定年退官後、和歌山高等医学専門学校の創設に参画し初代校長、のち改組され県立和歌山医科大学となり、その初代学長。トリプトファンの中間代謝の研究で学士院賞、のち学士院会員、文化功労者、正三位勲二等旭日重光章。


目次

[編集] 略歴

  • 明治12年7月12日(1879):岡山県邑久郡邑久町本庄尾(現・瀬戸内市)の村に生まれる。父弥津治、母美喜。
  • 明治23年(1891)邑久郡衣笠小学校 (のち明徳小学校、邑久小学校に統合)卒業
  • 明治26年(1894)邑久高等小学校(現邑久中学校)卒業
  • 明治28年(1896)岡山尋常中学(現朝日高校)2年終了後中退、大阪東雲学校入学
  • 明治29年(1897)大阪府立高等医学校入学
  • 明治35年(1902)大阪府立高等医学校卒業、京都帝国大学医化学教室入室
  • 明治41年(1908)大阪府立高等医学校教諭
  • 明治42年(1909)ドイツ・ケーニヒスベルク大学(現ロシアカリーニングラード)留学
  • 明治44年(1911)ドイツより帰朝
  • 大正2年(1913)医学博士
  • 大正6年(1917)アメリカ・ジョンズホプキンス大学留学
  • 大正7年(1918)アメリカより帰朝
  • 大正8年(1919)大阪医科大学の発足にともない同大教授
  • 昭和6年(1931)大阪帝国大学の発足にともない同大教授
  • 昭和7年(1932)ドイツハレ市カイゼルレオポルド学士院会員
  • 昭和8年(1933)帝国学士院賞受賞
  • 昭和9年(1934)大阪帝国大学付属微生物病研究所初代所長
  • 昭和12年(1937)大阪帝国大学医学部長
  • 昭和14年(1939)学術研究会議員
  • 昭和15年(1940)大阪帝国大学退官、同名誉教授
  • 昭和17年(1942)和歌山高等医学専門学校初代校長
  • 昭和23年(1948)和歌山県立医科大学初代学長
  • 昭和24年(1949)日本学士院会員
  • 昭和35年(1960)和歌山県立医科大学退官、和歌山医科大学名誉教授
  • 昭和36年(1961)文化功労者顕彰
  • 昭和38年(1963)日本医師会最高優功章
  • 昭和39年(1964)勲二等旭日重光章、以前に和歌山市名誉市民、邑久町名誉町民
  • 昭和43年5月30日(1968)永眠 (89才)、叙正三位

[編集] 古武弥四郎のふるさと

古武弥四郎の生誕地は岡山県邑久郡本庄尾の村(現邑久町本庄)である。その生家の庭には門下生達が建てた「古武弥四郎博士誕生之地」という石碑がある。生家と母校衣笠小学校(のちの明徳小学校)は歩いてすぐの距離にある。邑久町では古武弥四郎と同郷で遠縁にあたる画家の竹久夢二(本名茂次郎)が有名であり、生家も保存され資料館もある。弥四郎の父弥津治はちいさな田畑をもつ農家であったが、教育熱心であった。ふたりの弟がいたが、ひとりは病気がちであった。明治29年に岡山医学校の受験に失敗し、大阪の語学校(いまの予備校)東雲学校に入学のため病気の弟をつれて故郷をあとにする。相前後してもうひとりの弟弥之輔も大阪高等師範学校に入学すべく故郷をあとにする。父弥津治は田畑を売って教育資金を捻出した。

岡山医学校受験準備のために尾の村から岡山市内のドイツ語教師の下に一年間あるいて通ったという記録がのこっている。片道六里4時間の通学は弥四郎にとってはつらくもなつかしい思い出となり衣笠小学校の裏山天王山の頂上には弥四郎の詠んだ短歌「通学の昔なつかしかえり来てここゆ見おろす岡山のみち」の自筆の石碑が弥四郎,都留子夫妻の墓石とともに建っている。天王山の頂上からは千野平野がみわたせ、岡山市内へとのびる「岡山の道」をのぞむことができる。のちになって生家は弥四郎の弟弥之輔の次男弥中が復興した。弥中は明徳小学校の校長をながくつとめ弥四郎の業績の流布に貢献した。

[編集] 古武弥四郎の研究業績

    古武弥四郎の研究経歴をみると明治43年(1910年)から2年間のドイツ留学が一大転機となったことがわかる。当時のドイツはウィルヘルム2世の統治下にあるドイツ帝国で、弥四郎が滞在したケーニッヒスベルクはその東端のバルト海沿岸の町であった。第一次世界大戦でドイツは敗戦しこのまちはロシア領となりロシア革命後カリニングラードと改名された。ケーニッヒスベルクは「純粋理性批判」でしられる哲学者イマヌエル・カントが生まれ育ち、一生に一度も離れなかった町である。カントはこの町では「あるく時計」として有名で、定刻にきまった場所をあるくところを見てまちの人々は時計を合わせたという。弥四郎もまた時計の奴隷とおもわれるぐらい時間を守る人であったが、カントにならったのかどうかはわからない。ケーニッヒスベルク大学ではマックス・ヤッフェ教授の教室にはいったが、これは荒木寅三郎の紹介であった。荒木とヤッフェはホッペーザイレルの同門である。実験研究はおもにエリンゲル、クノープ博士とおこなった様子である。そのころのドイツ生理化学会誌(Zeitschrift fur Physiologishe Chemie)には弥四郎が同教室でおこなったチロシンの中間代謝に関する一連の論文がみえる。当時のドイツは合成および分析有機化学の勃興、最盛期にあり、アドルフ・ヴィンダウスハインリッヒ・ヴィーラントリヒャルト・ヴィルシュテッターといった化学史上に名を残した人たちが活躍していた。その分析的実験手法が弥四郎のドイツでの研究に影響したことは想像に難くない。

    当時の典型的な代謝実験はヒトあるいは動物にグラム単位の大量のアミノ酸を投与し、その尿を収集して、濃縮、抽出、成分の結晶化というものであった。当時分光学はほとんど存在せず、同定は官能基の呈色テスト、旋光能、融点、元素分析といったものであった。ドイツから持ち帰った、微量天秤や旋光計がもっとも強力な実験器具であった。ドイツでの実験手法が弥四郎の以後の研究方法の基礎となり、動物モデルや投与物質を変えながらすすめられていくことになる。帰朝して1918年には松岡善治とともにチロシンの中間代謝の研究をアメリカ生化学会誌(Journal of Biological Chemistry)を発表している。また1934,35年にはAnnual Review of Biochemistryに総説を執筆していることからも、アミノ酸代謝では世界的に著名になっていたことがわかる。当時日本のおおくの大学の研究は国際的レベルに達しておらず、日本語の国内誌あるいは紀要などに発表することが多く外国の雑誌に論文を発表できる研究者は少なかったのである。

    1930年ころには七里、吉松信宝(のち大阪大学医学部教授、奈良医科大学学長、産婦人科学)らの協力をえて、ライフワークとなったL-トリプトファンの中間代謝の研究を開始する。はじめは犬を用い大量のトリプトファン(これを準備するのも一大仕事である)を経口投与し、その尿から代謝物キヌレニン(Kinurenin)を単離同定した。キヌとユレはそれぞれラテン語の犬、尿に相当することばである。キヌレニンはトリプトファンを構成するインドール環が開環した構造をもっているが、この構造に行き着くまでの葛藤は容易に想像できる。なぜなら当時の生化学の常識からすれば酵素がこのような過激な開環反応をおこなうということは考えられないことであったからである。最初発表されたキヌレニンの構造には誤りがあり、これは結晶水をみおとしたためといわれている。のちになってドイツ・チュービンゲン大学、マックスプランク研究所のノーベル化学賞受賞者(1939年、ナチの圧力により受賞辞退)アドルフ・ブーテナントはキヌレニンが昆虫の眼の色素の前駆体であることことを発見し、来日の折には和歌山医科大学まで出向いて弥四郎に敬意を表した。ブーテナントはフェロモンのような微量生理活性物質研究の巨星であり、実験手法は弥四郎と共通するものがあった。つまり、大量の尿や昆虫から微量のホルモンを単離するというような仕事である。

    弥四郎はこの開環反応をおこなう酵素をトリプトファンピロカテカーゼと名付けたが、単離はできなかった。これらトリプトファンの中間代謝の一連の研究は当時超一流の生理学の国際雑誌であったホッペザイレル生理化学誌(Hoppe-Seylers Zeitschrift fur Physiologische Chemie)に発表された。10年以上もあとになって、早石修はこれが酸素添加酵素の一種であることを発見し、インドールオキシゲネースと再命名した。早石は当時ようやくアメリカで入手可能となった酸素の安定同位体や質量分析計を駆使してこの先駆的研究をおこなった。オキシゲネ-スは酸素分子を環に直接挿入できるという当時の常識からみれば驚異的な酵素であった。キヌレニンは生体内でさらにキヌレン酸(犬尿酸)などをへてアントラニル酸にまで酸化される。このような研究は市原硬をはじめとする門下生によって推し進められた。市原はのち生化学教室の弥四郎の後任教授となり学士院賞を受賞した。

    古武弥四郎の研究を現在の時点でみてみると,生体酸化ストレスの研究の端緒であったということができる。もちろん当時は、呼吸によって取り入れられた酸素が生体エネルギ-を発生させるばかりでなく、副次的な代謝経路をとおしてフリーラジカルを発生しそれが酵素の発現を誘導し、さらに生体組織を傷害し疾患の原因となるなどということはおもいもよらぬことであった。弥四郎が初代教授であった大阪帝国大学医学部生化学教室は弥四郎の去ったあと、市原硬、早石修、山野俊雄、谷口直之というそうそうたる研究者に受け継がれ、酸化ストレス関連の研究の伝統が今も息づいている。

[編集] 荒木寅三郎と古武弥四郎

荒木寅三郎(1866-1915)は第三高等学校教授をへて若くして京都帝国大学医化学教授となり、また48歳にして京都帝国大学総長となった人である。東京帝国大学医科大学卒業後、ドイツの著名な生理化学者、ホッペ-ザイレル教授のもとに留学した。総長在職中は政治的激動の時代であり、河上肇事件などの対処に奔走した。のち枢密顧問官、学習院院長などを歴任した。弥四郎は大阪高等医学校卒業後、荒木寅三郎の知遇を得て、その医化学教室の助手となった。当時まったく無名の弥四郎を荒木が教室職員に採用した経緯は興味深いところである。記録はのこっていないが荒木が岡山県立医学校(第三高等学校)教授であったことと関係があるかもしれない。当時の助手というのは実験手伝いという程度のもので極端な薄給であったとおもわれる。そのころ弥四郎は結婚して堺にすんでいた。長男弥敏がうまれたが夭逝し、そのおり棺をかうお金もなくりんごの木箱にいれて葬むったと後にかたっている。弥四郎は荒木研究室ではその精勤をもって頭角をあらわし、母校の大阪高等医学校の教諭の職を得ることになる。弥四郎がその研究室に留学したケーニッヒスベルク大学ヤフェ教授と荒木とはホッペ―ザイレル研究室の同門であり、弥四郎のドイツ留学先の決定も荒木の助言によるものであろう。

荒木は弥四郎を信頼しまた弥四郎はそれに精勤をもってこたえた。その師弟関係はまことに濃く、弥四郎はのち、ことあるごとに荒木の高潔な人格をほめたたえた。戦後、荒木の河上事件にたいする対処、軍部とのかかわりについても弥四郎は雄弁に弁護し、のちに「荒木寅三郎伝」をあらわした。荒木は漢詩と書をよくし、鳳岡と号した。弥四郎の書になる「精誠神明に通ず」の色紙の裏書きには「荒木先生ご命日に先生のご愛句を書す」とある。荒木、弥四郎ともに「一生懸命にはたらくことがもっとも大切」という信条では完全に一致していたのであろう。弥四郎の語録にも同様の記述がみえる。

[編集] 早石修と古武弥四郎

早石修(1920-)は酸素添加酵素オキシゲネースの発見研究で世界的に著名な生化学者である。大阪大学医学部の出身でアメリカNIH研究所毒物学部門長、京都大学医学部教授をながくつとめ、一時大阪大学医学部生化学講座教授、東京大学医学部教授も兼任した。退官後大阪医科大学学長、大阪バイオサイエンス研究所長(現名誉所長)。学士院賞、学士院会員、アメリカ学士院会員、文化勲章受章者。その門下からは西塚泰美や本庶佑らをふくむ多数の俊秀が輩出した。

古武弥四郎が学会を引退したのちもながく有名であった理由のひとつは、早石修がその著書や総説で古武弥四郎との接点を敬意をもってくわしく記述したからである。早石が研究生活にはいったころには弥四郎はすでに大阪大学を退官しており、学生時代にその講義を聴講した程度の関係であった。しかし、早石は学問上の師としての弥四郎を敬い厚遇した。その関係は荒木寅三郎と古武弥四郎の師弟関係を想起させる。若き日の早石の研究者としての可能性をいちはやくみぬいた弥四郎の慧眼にはおどろくべきものがある。ここでは早石修著「酸素と生命」(東京大学出版会、1984年)からそのかかわりを記述した部分を引用する.

序章 酸素をめぐる研究の発展と酸素添加酵素の発見のいきさつ 9ページ、、、、 ところで私は先ほど香月先生からご紹介を受けましたように、昭和17年に大阪大学を出まして、しばらく海軍に軍医として奉職していましたが、昭和20年、戦争が終わった年に大学に帰ってきました。大学にかえってきたところがちょうど戦争直後のことで、私の住んでいた家は全部爆撃でこわれて住むところもなく、食べるものもなかったのです。大学に行ってみますと大学の建物は残っていましたが、電気も水もチョロチョロ、きょうも断水あすも断水であるし、電圧は始終下がるので実験がなかなかできません。もちろん研究費もとぼしく、薬品や試薬もあまりありません。そういう非常に悲惨な状態でありました。そのとき開業でもしていれば毎日白米のおいしいご飯が食べられたのでしょうが、私は非常に変わっていたのか、大学へ行って何か研究したいということで研究を始めたのです。大阪大学には古武弥四郎先生という大先生がおられました。

日本にはコタケ先生といえらい先生が2人おられて、1人は「小さい竹」(スモールバンブー、small bamboo)と書きますが、その「小さい竹」の先生は化学のほうの大先生であり、「古い武士」(オールドサムライ、old Samurai)のほうは生化学者で医者でありました。この「オールドサムライ」先生はもうだいぶ前に亡くなられ、小竹先生も最近亡くなられました。この古武先生は日本の生化学のゴッドファーザーのような方で、先生の生きているときにすでに岡山で、「古武弥四郎博士誕生之地」という写真(略)に見えるような記念碑がつくられていました。きのうテレビを見ておりましたら、野口英世の生まれた家が今度修復されて記念館になったそうですが、この古武弥四郎先生は生きているときにすでに生まれた家に碑が建てられた、それくらい有名な先生でありました。この有名な先生は何をされたかといいますと、つぎの図1.7(略)にあるようにトリプトファンというアミノ酸を研究して、このアミノ酸がまずキヌレニンになるということを明らかにされました。このキヌレニンという物質は古武先生によって世界ではじめて動物の尿から分離され、その構造が決定されたのです。そういうことでたいへん有名な先生であります。キヌレニンはさらにここに書いてあるキヌレン酸とかアントラニル酸とかキサンツレン酸というようなたいへんややこしい構造の化合物になり、人間では尿中に排泄されます。病的な状態では割合が変わったりいろいろおもしろいことがありますが、そういった研究で、戦争前、いまからもう50-60年前にすでに国際的に大変有名になられた先生であります。

私は軍隊から帰り、さきほど申しましたような戦後の非常にひどい状態のなかで何か研究を始めようと思ったのですが、薬品もなく、とにかく電気も水道もとぼしいというとき、この先生が私を呼ばれて「自分はまだトリプトファンとキヌレニンというものをもっているから、これを使って何かやってみたらどうか」といわれたのです。それで私は何人かの仲間にいろいろ相談しましたが、「そんなことをやってはだめだ、だいいち昔から古武先生がたくさんの弟子を使ってこういう立派な仕事をされたのだから、いまさらお前のように何も知らないものがやってもいい研究などできるはずがない」「やめた方がよい」といわれたのであります。しかしほかにやりようがない。そこでしかたがないので、私はなにかひとつ目先の変わったことをしてみようと思い、大学の裏の焼け跡の土を拾ってきて、このトリプトファンを少量まぜ、それを試験管のなかに入れて、そのまま置いて帰りました。あくる日またやってきて振ってみる。何も変わりがない。家へ帰ってまた来る。だから電気もいらない水道もいらないたいへん楽な実験でありましたが、そういう実験を何日間かやっていますと5日目くらいになって、そのなかにバクテリアが生えてきました。そのバクテリアがなぜ生えてきたかといいますと、トリプトファンを分解するバクテリアがトリプトファンを食べて、そこでトリプトファンを酸化、分解し、そのエネルギーを利用してバクテリアが生えてきたのです。そのバクテリアを今度は分離して生やしてみていろいろ調べましたところ、おもしろいことにこの土から取ったバクテリアはトリプトファンを分解して、古武先生が発見されたのと同じようにキヌレニンや、アントラニル酸に、そしてまたキヌレン酸やキサンツレン酸に変えることがわかりました。そこで大学にいた何人かの人にそのことをいいますと、「それみたことか、それじゃ要するに古武先生がネズミでやったことをお前はバクテリアでやっただけではないか」といわれたのです。ところがじつは、ちょっと違うのです。

どこが違うかといいますと、さきほどいいましたように、だいたい人間やネズミではこのややこしい構造をもったものは尿に出てきます。つまりこれは終末産物でありますが、バクテリアではこのアントラニル酸からもっと先に酸化分解されてカテコールや、ムコン酸というものになり、つぎにさらに炭酸ガスと水とアンモニアに完全に酸化、分解されることがわかったのです。考えてみますとそれはある程度あたりまえのことでもあります。というのは、トリプトファンはアミノ酸ですから人間は別にこれを完全に分解する必要はないのです。皆さんご存じのように、人間はブドウ糖とか脂肪を完全に分解してエネルギー源にすればよいのでありますが、土からとったこのバクテリアはトリプトファンだけしか利用できません。トリプトファンを溶かした水のなかに生えてきたのだから、とにかくトリプトファンを酸化して、それをエネルギー源にして生えてきたのだから、とにかくトリプトファンを完全に分解することがむしろ必要であったわけです。そういうことでこのバクテリアに動物とはちがった、つまり新しい代謝経路があることを見つけたわけであります。

3章 失敗は成功のもと p118 このたび、私の定年にあたりまして、退官記念の講演をさせていただく機会を与えられましたことは、大変光栄とするところであります。皆様には学年末で大変お忙しい中を、また中には大変遠方からお運びいただき、かくも多数ご参集下さいましたことに心から厚く御礼申しあげます。

この講堂は大変手狭ですし、暖房も不備で椅子もあまり座り心地が良くないのですが、昭和24年終戦第一回の日本生化学会が京都で開催された時に、この講堂で私の最初の研究でありましたパイロカテケースの仕事を発表しました思い出深い講堂であります。その講演のあとで、一番前列の席にすわっておられた当時学会の長老であられた古武弥四郎先生がすっと質問に立たれたので、生まれて初めての学会発表でドキドキしていた胸がいっそう興奮したことを覚えています。しかし、大してむずかしい質問もされず、大変おほめをいただき励ましていただいたことを記憶しております。古武弥四郎先生はご存知の方も多いかとおもいますが、この医化学教室の初代の教授である荒木寅三郎先生の愛弟子でありましてトリプトファン代謝の世界的な権威であり、私も大阪大学で学生として古武先生の生化学の講義を聴かせていただきました。そういうわけで私はいわば荒木寅三郎先生の孫弟子にあたるかと思いますが、このような因縁もあって私は昭和33年に本学に着任して以来、25年2ヶ月にわたって学生諸君にこの場所で講義をしてまいりました。そのようないろいろな意味で思い出深い講堂ですので、あえてこの場所で最後の講義をさせていただきます。しばらくご静聴いただければ幸いです。

[編集] 古武弥四郎の語録

古武弥四郎は教室員との座談を好みまた博覧強記のひとであったから、漢籍にもくわしく、いろいろな警句をのこした。門下生で生化学教室を継承した市原硬はおもな聞き役であり、それをメモにのこした。硬の長男市原明もやはり生化学者(徳島大学)であり、この語録を生化学学会誌「生化学」に投稿した。それをここに大半引用する。

生化学 55巻 1102-1105 「てがみ」欄 古武弥四郎先生語録

古武弥四郎先生は明治35年大阪府立医学校(現在の大阪大学医学部の前身)を卒業後。同38年、医化学教室を創設され、昭和15年退官後は和歌山県立医専校長としてその創設、つづいて医大昇格に努力せられ、初代学長を昭和35年までつとめられた。そして昭和43年5月30日89歳で亡くなられた。このように先生は阪大医学部生化学教室、和歌山医大の創始者であるが、その研究はアミノ酸代謝で世界のトップレベルを達成され、ことにキヌレニンの発見はその頂点として輝いている。これらの業績により日本学士院賞、ドイツハレー市学士院会員にもなられ、晩年には文化功労者、和歌山市名誉市民の称号もおくられた。先生の研究のレベルがいかに高かったかは戦前の日本の研究レベルが未だそれほどでもなかった昭和9-10年代にAnn. Rev. Biochem. 3,4巻にアミノ酸代謝の章を執筆されたことからも想像できる。

このように偉大な先生であるから阪大では今に至るまで神の如く尊敬されているが、先生はまた研究者のこころがまえや人生訓をたくさん折にふれて話された。先生の助教授であった私の父は、これらをその都度か書きとめ、生化学教室の同門誌「同友」に昭和7年から毎年連載した。だから論語や仏典の如く師のことばを弟子が書きとめた‘子曰く’であり‘如是我聞’であり、同門の人たちはこれらの教訓で育てられ、なじみの深い語録であるが、全国の研究者には未だ読まれたことのない方も多いと思うので、現在同教室の主任である山野教授とも相談してここに転載、紹介することにした。皆様も私たち同様、必ずや感銘を受けられ研究の発展に益するところが大きいと存じます。

[[古武先生語録] (古武先生語録は原文のまま、なお、理解のたすけのために、少し市原が註を入れた)

  • 川に沿うて歩くな、川を渡れ。
  • 本をよまねくてはならぬ、考えもみなくてはならぬ。しかし、働くことはより大切なことである。読書や考案ばかりでは決して凡人に偉大なことはできない。凡人に許されている偉大なものはただ働くことによって得られる。
  • 凡人は働かなくてはならぬ。働くとは天然に親しむことである。天然を見つめることである。斯くして始めて天然が見えるようになる。
  • 働けば天然がみえるというのは無我になるからである。天然とは自分が一体一如になるからである。凡人は働く以外に無我になる方法はない。
  • 実験成績がまちがっているのではないかと考える前に、自分の考に無理はないかと反省すべきである。そう考え得ることは大いに本を読んでいる人でないと出来ない。
  • 大研究には二つの時期がある。第一期は30歳前後、第二期は50歳以後である。第一は所謂天才の業である。第二は根強く永く辛抱して漸く出来る凡人の業である。前者が後者に勝るとは限らぬ。凡人は須く50歳以後を待望しなくてはならぬ。
  • 研究はヒラメキを要す。ヒラメキは専念することにより養われる。
  • クリストは受くるより与える者は幸いなりといふ。別刷のみは正に然るを覚ゆ。
  • 研究発表は云い足らぬも不可。云い過ぐるも不可。
  • 吾々の心より心に通ふものあり。そは真理を愛する念なり。
  • 研究家は明暗の界に立って居なくてはならぬ。明のみに立てば開拓の余地なく、暗のみに居れば五里霧中に彷徨する〈註、この二つの言葉が同門誌「同友」のシンボルとして毎号表紙の見返しに先生の字で印刷された。創刊号において父の註があり「吾教室の学位受領者に贈る祝盃の内面に旋光度測定計のハルブシャッテンが表されているのは先生のこのイミで、二つには生化学者歯活性体即ち天然物を研究すべきであること、三つには人間も研究も活性でなくてはならぬことを示しているものである」とある。)
  • 失敗はだれにでもある。大切なのは失敗した時の態度と措置だ。失敗を通じてそのひとの人物がわかる。
  • 完全に一操作を実施するものが万操作を完全に行う。
  • 尿は吾人にとりた金銀にまさる。
  • 石の上にも三年、十年一日の如しの語あれど、三年は愚、十年尚不足なり。須らく20年30年を期すべし。
  • 外国品を紹介して大家になれた時代がある。ボロ学校を仕上げて名を謳はれた時代もある。今後は二つ共になくならう。残るは一つ大業績を上げること。
  • 日々の研究業績は山をなし。洛陽の紙価を貴からしめている。それでいて読まねば恥になる仕事は幾つあるか。世界は少しでも進歩したであろうか。いらぬ仕事はなさぬに限る。
  • 小芋を箸ではさむが如き研究は積んで山をなすとも遂に得るところはない。芋は必ず串で突き刺さなくてはすべってむこうへいってしまう。

[編集] 古武弥四郎にまつわる挿話

弥四郎の主宰する大阪帝国大学医学部生化学教室には基礎医学を志す学生に加えて臨床の各教室から医学博士号取得のための研究をすべく訪れるひとがひきもきらず、盛況を呈した。後に功なり名とげた門下の臨床医や基礎医学者はその恩をわすれず、教室でのなつかしいおもいでを語りつたえた。また本人も苦学時代や恩師荒木寅三郎のことを好んで語った。ひじょうな硬骨漢であり、山崎豊子著「白い巨塔」に弥四郎をおもわせる浪速大学医学部教授のもとに教授選投票依頼におとずれた人が峻拒され追い返される場面がでている。

弥四郎は早寝早起きが生活信条であり、あさ4時にはおきて兵庫県川辺郡山本(現宝塚市山本)の自宅から現在の阪急電車で大阪中ノ島にあった研究室に出かける。はじめは一番電車をつかっていたが、卸にでかける魚屋の箱がくさいというので2番電車をつかうようになった。ほとんど午後4時きっかりに帰宅し、すぐ食卓にすわるのが常であった。「夕食は生煮えでも定刻にださないと不機嫌だった」とのちに妻都留子は語っている。大阪へ通った間、一度も当時阪急梅田駅の上にあった阪急百貨店にはゆかなかった。午後9時には就寝した。

研究室では無類の話し好きまた説教好きであった。この一部は市原硬が古武弥四郎語録として記録している。かみなりもよく落としたが、心配症でもあり、教室員を叱ったあと姿が見えなくなるとほかの教室員にさがさせたりした。下働きの人々には非常に親切でおごったところがなかった。遅刻の多いさる教室員は夏、教授室の簾の両開きドアの下を靴をぬいで這うように実験室にはいったが、みつかることもおおく便所まで一緒についてきて説教をされたという。

講義は一切資料をもたず、ちいさな紙切れに言うべき項目を書いたものをもっていった。ひじょうな達筆で黒板に字を書き、つよい岡山なまりで話した。受講者の感想は「講義は素晴らしかった」というのと「退屈だった」というのにわかれている。当時の医学者は化学によわい人がおおかったが弥四郎は化学構造式を自由自在に書いた。

学士院会員になって、毎月の東京での例会には欠かさず出席していたが、晩年は当時大阪大学医学部の学生であった嫡孫の古武弥宏がつきそって上京することもおおかった。夜行列車で弥四郎は二等車、弥宏は三等車にのった。あるとき弥四郎が弥宏を捜しに来たときには、三等車の入り口で「古武弥宏はおらぬか」と大音声でさけんだというユーモラスな弥四郎らしい挿話がのこっている。東京では神田の学士会館にしか泊まらなかった。学士院賞の審議では世界的にみて独創的な研究をすすめている研究者をつよく推した。早石修、奥貫一男、野副鉄男などのことである。

古武弥四郎を学会以外で著名にしたひとつの要素にその子息の活躍がある。長男弥人は北野中学, 大阪高等学校、京都帝国大学理学部を卒業後、父の分野にはいり和歌山医科大学教授、名古屋大学教授、神戸学院大学教授を歴任し、日本生化学会会頭もつとめた。トリプトファン代謝物の栄養学的研究をおこなった。弥四郎の生化学教室に入ったときには、その実験手法が出身の理学部化学教室(小松茂研究室)にくらべて粗いのでおどろいたと語っている。次男弥六は北野中学、大阪高等学校、京都帝国大学医学部卒業、同脇坂内科に所属して将来を嘱望され、ドイツ留学もきまっていたところで軍医として応召し5年間北支、さらにビルマ戦線と転戦して終戦をビルマでむかえた。戦後京都大学医学部に復帰したが、教室はすでに後輩が上位をしめていた。京都大学医学部講師を経て丹後中央病院長、彦根市立病院長を歴任した。三男古武弥正は視力が常人の4分の一しかない弱視であったが、北野中学から関西学院専門部、関西学院大学とすすみ、1938年排日気運のたかまるアメリカハーバード大学の視力障害者のためのパーキンス研究所に留学した。帰国後実験心理学をてがけ、慶応大学の著名な心理学者林たかし教授(推理小説家、筆名木々高太郎)の門にはいり、その研究室で実験心理学的手法を習得しヒトの条件反射学の第一人者となった。のち関西学院大学学長、兵庫医科大学理事長を歴任した。医学博士号は大阪大学医学部生理学教室久保秀雄教授のもとで取得した。長女春子の夫石橋栄は東京帝国大学理学部出身で大阪高等学校の数学教授であったがシベリアで戦病死した。また次女常子の夫稲垣哲也は京都大学出身の内科医、医学博士であった。一家5人が医学博士という見出しで新聞にとりあげられたりした。常子以外はすべて故人である。

長男弥人の学位に関して興味ぶかい挿話がのこっている。弥人の学位審査の主査は弥四郎であったが、そのとき同時にやはりその子息の学位主査をした教授がいた。弥四郎は弥人の学位論文の業績をたかく評価する演説をし、もうひとりの教授は一身上の都合として退席した。のちほど教授たちはどちらが好もしいかを議論したというが、弥四郎は学問上の業績のよしあしには親も子もないと主張したと伝っている。

弥四郎は天性の書道家であり厖大な数の書をのこしている。昭和36年、関西学院大学理学部(当時西宮市上ヶ原、現在三田市)創設にさいしてその建物の玄関に「愛をもて互いに事(つか)へよ」という聖句を遺した。この理学部創設の責任者仁田勇大阪大学名誉教授の依頼によるものである。また門下生の依頼により、その門下生の属する生化学教室の木の看板を書いた。その一つが長崎大学医学部生化学教室にのこっている。弥四郎門下の頼尊長崎大学教授(生化学)の依頼によるとおもわれる。

     妻都留子は度胸の座ったあたたかい心の持ち主で教室員から慈母のように慕われた。弥四郎とは姻戚関係にあり若いころ東京の宅にやはり同郷で遠縁の竹久夢二が寄宿していた。都留子の妹の保恵の記憶では夢路はよく都留子をスケッチしていたので、両親は心配して夢二と都留子を二人きりにしないように注意したという。夢二の絵にでてくるような目のおおきな美人であった。正月には宝塚の宅に年始に訪れるひとが百人以上ひきもきらず、一大同窓会の様相を呈した。これは妻都留子のあたたかい人柄のためでもあった。弥四郎は書、墨絵, 短歌をよくしたが、都留子も短歌をよくした。弥四郎逝去のおりには

「おおぞらのみ星のかずに入りませる背子のかがやきとわにかわらじ」

と詠んだ。

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