原富太郎
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原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年10月8日) - 昭和14年(1939年)8月16日)は、実業家、茶人。号は三渓。美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市)出身。
青木久衛の長男。小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫・原 屋寿(はら やす)と結婚し、原家に入る。横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。
また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。
1915年に帝国蚕糸の社長、1920年に横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取となる。1923年の関東大震災後には、横浜市復興会の会長を務めた。しかし関東大震災後の復興支援のため私財を投じ衰微。
美術品の収集家として知られ、小林古径、前田青邨らを援助した。横浜本牧に三渓園を作り、全国の古建築の建物を移築した。三渓園は戦前より一部公開されていたが、戦後原家より横浜市に譲られ、現在は財団法人三溪園保勝会により保存され、一般公開されている。
子に原善一郎、原良三郎らがいる。
[編集] 参考文献
- 竹田道太郎著 『近代日本画を育てた豪商 原三渓』 有隣堂、1981年
- 白崎秀雄著 『三渓 原富太郎』 新潮社、1988年
- 勝浦吉雄著 『生糸商 原善三郎と富太郎 その生涯と事績』 文化書房博文社、1996年