淵田美津雄
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淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年) - 1976年(昭和51年)5月30日)は日本海軍の軍人。
奈良県北葛城郡磐城村(現、葛城市)出身。奈良・畝傍中学をへて、大正3年.7海兵卒(52期)。真珠湾攻撃における第1次攻撃隊(及び隷下の水平爆撃隊)を指揮し、「ト・ト・ト」(全軍突撃せよ)、及び「トラトラトラ」(奇襲ニ成功セリ)が淵田機から打電されたことで知られる。当時海軍中佐。
開戦前、第三航空戦隊参謀から二度目の空母「赤城」飛行隊長へと就任した。異例の「降格人事」であった。同期で親友の、事実上の作戦立案者であった源田実たっての希望であったと云われる。
ミッドウェー海戦時には、ミッドウェーに向かう洋上で虫垂炎となりミッドウェー空襲隊の指揮を執る事が出来ず、空母赤城艦上に留まった。赤城からの脱出時に両足を骨折。内地送還後は横須賀航空隊教官、海軍大学校兼陸軍大学校教官を経て軍令部出仕、第一航空艦隊参謀、連合艦隊・南方軍参謀を務めた。終戦時は海軍大佐。
敗戦後は第二復員省(旧海軍省)史実調査部、連合国総司令部歴史科嘱託として戦中資料の整理研究を行った。淵田の南雲忠一、山本五十六への評価は辛辣である。
昭和24年(1949年)、キリスト教に入信し以降、昭和41年(1966年)に引退するまで日米各地で伝道活動に従事した。アメリカでは「真珠湾攻撃の英雄」として迎えられることが多かったという。昭和42年(1967年)、郷里に隠棲。