内田光子
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内田 光子(うちだ みつこ、1948年12月20日 - )は、イギリス在住の日本のピアニスト。オランダ・フィリップス社所属。現役ピアニストの中で、最高クラスの賞賛を受けている名匠である。
桐朋学園の「子供のための音楽教室」にて、松岡貞子に学ぶ。父親が外交官であったため、12歳で渡欧。1961年からオーストリアのウィーン音楽院でリヒャルト・ハウザーに師事する。同時期に、留学中の寺田悦子が同音楽院に在籍し、互いに切磋琢磨したという。その後もヴィルヘルム・ケンプ、ステファン・アスケナーゼ、ニキタ・マガロフらの薫陶を受ける。その後、一時帰国するが、再び渡欧。
1960年代からのいわゆる“コンクール荒らし”は有名で、1966年のミュンヘン国際コンクールで1位なしの第3位、1968年のエリザベート王妃国際コンクールで第10位、1969年のウィーン・ベートーヴェン国際コンクールで第1位、1970年のショパン国際ピアノコンクールで第2位、1973年のルツェルン音楽祭でのクララ・ハスキル・コンクールで第2位、1975年のリーズ国際コンクールとレーヴェントリット国際コンクールで第2位となり、世界のスーパースターの仲間入りを果たした。
1972年に活動の本拠地をウィーンからロンドンに移し、以後はここを中心に活躍する。現在でこそ、彼女の公演は世界中で大盛況であるが、70年代、彼女の公演は自主開催であり、中程度のホールを満席にする事にも、関係者は四苦八苦していたと伝えられる程、人気は今ひとつであった。その後、長い低迷期を経て、1982年、ロンドン、ウィグモア・ホールでのモーツァルト「ピアノ・ソナタ連続演奏会」、続いて1984年にイギリス室内管弦楽団を自ら指揮しつつ演奏したモーツァルトのピアノ協奏曲の全曲演奏会は絶賛され、世界的ピアニストとしての不動の地位を築き上げた。これを契機に、フィリップスにモーツァルトのピアノ・ソナタとピアノ協奏曲全曲録音を行う。
1984年、小澤征爾の指揮するベルリン・フィル定期演奏会にデビューする。それ以来、世界の全てのメジャー・オーケストラの定期演奏会、そしてザルツブルク音楽祭、プロムス、タングルウッド音楽祭、ルツェルン音楽祭などの世界的音楽祭の常連となった。現在はリチャード・グードとともに、米国マールボロ音楽祭のディレクターを務めている。この様に、最近の彼女は室内楽への取り組み、そして若手育成に力を注いでいる。
レコーディングには大変慎重で、現在までに、モーツァルト、ショパン、シューベルト、シューマン、ベートーヴェン、ドビュッシー、シェーンベルク、ヴェーベルン、ベルク、ラモーなどの作品を録音している。現在、世界中で絶賛を博している、ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタ(第28番-第32番)のレコーディングが進行中である。
ステージ回数を年間50回以下に絞り、鋭い知性と豊かな感性を持ち合わせる世界でも稀有な存在であり、極めて密度の濃い演奏活動を行っている。
2006年来日予定、サントリーホール20周年ガラコンサートでソロ・リサイタル、サイトウ・キネン・フェスティバルでのソロ・リサイタルと小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラとの共演、そして、冬にはマリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団との来日が予定されている。