伊東祐松
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伊東 祐松(いとう すけます、生年不詳 - 天正6年(1578年))は戦国時代~安土桃山時代の武将。相模守。帰雲斎。伊東祐梁の子。日向伊東氏家臣。
天文2年(1533年)に伊東祐武が乱を起こした際は伊東義祐擁立派として働き、義祐が家督を継ぐと、その側近となった。家中では義祐と同等の権勢を振るい、余剰米の横領などで数多くの家臣から恨みを買った。
天正3年(1575年)、島津氏に圧迫された肝付兼亮の提案によって伊東氏は肝付氏と空砲を使った偽装の戦闘を行ったが、伊東方が約束に反して実弾を用いたので肝付勢は全滅し、両家は義絶に至った。この事件は祐松が肝付領南郷を奪うために仕組んだものであったと言われる。
伊東氏の衰退期には、須木城主の米良氏や財部城主の落合氏など、祐松に対する私怨から島津氏に寝返る者も多く出ている。主家没落時は義祐に従って豊後に退去、翌年に三城で死去した。