仏教治国策
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仏教 治国策(ぶっきょう ちこくさく)は、中国・隋の文帝のその特徴的な仏教政策を指す。
[編集] 概要
隋の文帝が混乱に乗じて政権を簒奪した北周では、第3代の武帝の時代に、儒教・仏教・道教の三教に対する宗教政策(文教政策)が、その親政前に盛んに論議された(三教談論)。親政後の武帝は、この問題に対し、仏教・道教の二教を廃し、儒教のみを、自国が表面上標榜している古代の周朝への復古主義のもと興隆させるという政策をとった。しかし内実は、仏教・道教の寺院や道観が抱える財力・人力を対外戦争に利用するのが目的であった。
武帝亡き後の北周政権内の政権争いに勝利し、隋朝を建国した文帝は、この問題に対して、仏教・道教の部分的な復興という政策をとり、更には、一面、儒教に代わって仏教を主とする地位に置き、儒教・道教を副とするかのような政策をとった。これは、中国においては、非常に特異な政策と見ることができる。
具体的な施策としては、
などが挙げられる。
このような政策は、続く唐朝や武則天、さらには日本の奈良時代の仏教政策に受け継がれることとなる。但し中国においては、同姓の李氏である老子を祖と仰ぐ唐朝においては、仏教の地位は道教の下に置かれたし、仏教を道教の上に置いた武則天の治世は短命に終わってしまった。
また、同じく奉仏皇帝として知られる梁の武帝と対比的に語られることが多いが、隋の文帝の施策が隋朝の国家事業的な色彩が濃いのに対し、梁の武帝の場合は、皇帝の個人的な信仰に基づく修功徳行為であり、同列には扱われないものである。