五大法律学校
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五大法律学校(ごだいほうりつがっこう)とは日本において明治時代に設立されていた私立の法学系教育機関のうち、5つをまとめた用語であり、明治時代より法学者の間では一般に使用されてきた。時代背景によって5つの教育機関の枠組みには2つの状況があり、また、四大法律学校・九大法律学校という枠組みも存在していた。いずれも時代背景によるものであり、一方が間違っているということではない。
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[編集] 前史
江戸時代の日本においては蘭学塾としてオランダの文化や医術を学ぶ学問所は存在していたが、「法律」というものは「お上」が定めるものであり、現代とは違って幕府や諸藩に仕えている学者が政治的必要性から研究する以外は、法律に関して研究・出版する事は「お上を誹謗する」事であるとして厳しく制限されていた。
しかし、明治期となり、欧米各国と対等な付き合いを行うためには近代社会にあわせた法律の施行が重要となった。そこで急速に法律の研究体制が整えられることとなる。当初の研究対象はヨーロッパの法体系がどのようになっているのか、その法体系を日本へ適用するにはどのような改訂作業が必要なのかという部分であった。明治政府は1877年に東京大学を設立するが、その際にも法学部を一つの学部組織として設置している。
一方、国家による法律研究のほかに在野の法律研究家が欧州へ留学を開始するのも江戸末期から明治初頭である。こうした欧州での留学経験者は日本へ帰国すると自らの学んできた法学知識を普及するための学校を設立した。こうして私立の法学系教育機関が設立される。また、官職を担当した人物が数年でその職を辞して自ら法律教育機関を設立したケースもあった。
[編集] 明治初期
様々な法学系教育機関が設立される中で、1886年には私立の5法学系教育機関が帝國大學総長の監督下となる。この5教育機関は以下の通りである。
- 和仏法律学校(現在の法政大学、1880年に東京法学社として設立)
- 専修学校(現在の専修大学、1880年設立)
- 明治法律学校(現在の明治大学、1880年設立)
- 東京専門学校(現在の早稲田大学、1882年設立)
- 東京法学院(現在の中央大学、1885年に英吉利法律学校として設立)
これらの学校は「五大法律学校討論会」を開催するなど、「五大法律学校」として当時の政府からも認められていたようである。
[編集] 四大法律学校
その後、民法典論争が発生した1890年頃には専修学校が抜け、4つの法律学校を「四大法律学校」としてまとめるようになる。昭和初期に法学に関する書籍を多く発行した岩田新は『日本民法史』(同文館・1928年)の中では当初の五大法律学校は登場せず、四大法律学校として取り上げられている。
[編集] 明治後期
その後も私立の法学系教育機関が設立されたが、明治後期には1889年に設立された日本法律学校(現在の日本大学)を加えた5つの私立法律学校を「五大法律学校」としてまとめ、それに帝国大学を含めて「六大法律学校」と呼ぶことが多くなる。例えば東京法論社編『文官高等普通裁判所書記試験問題答案』(青木嵩山堂・1903年)では「第四編 判検事弁護士理事主理六大法律学校試験問題」として六大法律学校の試験問題を収録している。さらにこの中で六大法律学校は「帝國大學・東京法學院・明治法律學校・和仏法律學校・専門學校・日本法律學校」(専門學校は東京専門学校のこと)の順でまとめられている。
[編集] 九大法律学校
前述の帝国大学(帝国大学法科大学)・東京法学院・明治法律学校・和仏法律学校・東京専門学校・専修学校・日本法律学校の他にドイツ系法学の獨逸学協会学校(現在の獨協大学)、1890年に法科を設置した慶応義塾(現在の慶應義塾大学)の2校を加えて九大法律学校と呼ぶことがある。これは、『九大法律学校大勢一覧』(1898年)という書籍にこれの教育機関が掲載されていることから来る呼び方である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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