九六式軽機関銃
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九六式軽機関銃のデータ
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正式名称 | 九六式軽機関銃 | |
全長 | 1075mm | |
銃身長 | 550mm | |
重量 | 10.2kg | |
口径 | 6.5mm×50 | |
装弾数 | 30発(箱型弾倉) | |
発射速度 | 550発/分 | |
製造国 | 大日本帝国 | |
製造 | 南部銃器製造所(中央工業) |
九六式軽機関銃は、大日本帝国陸軍(以下陸軍という)の制式軽機関銃である。
目次 |
[編集] 開発経緯
日露戦争から第一次世界大戦にかけて陸軍内での機関銃の重要性は高まりを見せた。当時の機関銃の形態は銃自体を三脚にのせ、重量も50kgはゆうに超えていたため、機動戦には不向きであった。また前線において設置や発射など手間がかかり非常に扱いも難しかった。また第一次世界大戦後、歩兵による戦闘も中隊規模から徐々に小隊規模へ変わっていき、それに伴い、陸軍は一歩兵が簡単に携帯できる機関銃の開発に着手した。そして大正11年(1922年)に十一年式軽機関銃を開発し、翌年の春から各部隊に配備していった。当時において陸軍での軽機関銃の配備は諸外国に比べても早く、そのため各国ではその先進性は評価された。満州事変で初陣を飾った十一年式軽機関銃であるが構造上砂塵に弱く、特に機関部に入り込んだ砂塵により故障が相次いだ。
[編集] 九六式軽機関銃の登場
十一年式軽機関銃の機関部不具合に対し、軍部は故障が少なく、扱いやすい新型の軽機関銃の開発を南部麒次郎中将が設立した会社「南部銃器製造所」(後の中央工業)に委ねられた。昭和7年(1932年)から開発が始まった当初は、陸軍造兵廠である小倉造兵廠と競作であったが中央工業の方が技術的に優れていたためその後は中央工業が主体となって試作機関銃の開発を進めることとなった。そして昭和11年(1935年)九六式軽機関銃として制式採用される事となった。中国軍が使用していた「無故障機関銃」ことチェコスロバキア製のZB26軽機関銃や改良型ZB30を参考にした為、外見は非常に似ている。機関部はガス作動式を採用し銃身基部のラッチを解放することにより簡単に銃身の交換が出来た。弾薬は十一年式軽機関銃と同じ口径6.5mmの三八式実包減装弾を使用し、また装弾数はZB26軽機関銃が20発であるのに対し、九六式軽機関銃は30発の箱型弾倉を採用し機関部の上から装填する方式を採用した。箱型弾倉採用のため、弾薬に砂塵やゴミが混入が少なくなったことから塗油装置は廃止、点射による狙撃を主とする運用上必要な照準眼鏡(制式名:九六式照準眼鏡具)を装着した。(上部装填形式のため照準自体は横にオフセットして装着する)軽機関銃としては珍しく銃身下に銃剣の着剣装置を持つ。これは「機関銃にまで白兵戦用の銃剣を付けていた」などと、旧軍の白兵戦至上主義の悪い例とされるが間違いであり、連射時の銃身の跳ね上がりを押さえ、命中率を向上させる錘の役割を果たす(わざわざ専用の錘を持ち歩くのではなく、歩兵が身に付けているもので手ごろな銃剣を使っている)ものである。
[編集] 九六式軽機関銃、その後
日中戦争以降から活躍し始めた九六式軽機関銃はその後第二次世界大戦を通して活躍した。粉塵対策を行った本銃は故障が少なく、部隊では非常に好評であった。また生産においては当時の大日本帝国では加工精度が諸外国に比べて劣っていたため、最終調整は熟練工に頼った。そのためか射撃時においてはガタ付が少なく命中精度は非常に高かった反面、小装薬実包故の遊挺後退量不足による排莢不良や、諸外国に比べて薬莢が僅かに薄く、膨張した薬莢が薬室内に貼り付き千切れる事による排莢不良を度々おこした。鹵獲したZB26軽機関銃を調べたところ、微妙に薬室のテーパー値を変化させている事に気づき、後の生産分の96式では、薬莢の貼り付き問題が幾分解消された。その後第二次世界大戦が本格化してくると威力の高い7.7mmを使用を決定、九六式軽機関銃に7.7mm弾を使用出来るように改造した九九式軽機関銃を後に開発している。生産数は昭和17年までに約8500丁生産され昭和18年に生産が打ち切られた。これは九九式軽機関銃が制式採用後も引き続き生産が継続されていたことが伺える。
終戦後、九六式軽機関銃及び九九式軽機関銃は現存している物が多く無稼動実銃として多数が日本国内で売られている。
[編集] 九六式軽機関銃の登場するメディア作品
- メダル・オブ・オナー ライジングサン(PS2用ゲーム)
- メダル・オブ・オナー パシフィックアサルト(windows用ゲーム)
- シン・レッド・ライン(映画)
- ウインドトーカーズ(映画)