出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中臣勝海(なかとみのかつみ、生年未詳~587年4月)は飛鳥時代の豪族。崇仏論争のとき、排仏を主張し、物部守屋に従う。585年、疫病流行の原因が蘇我氏の仏教信仰だといって、排仏を敏達天皇に上奏。587年に用明天皇が病床で仏教に帰依しようとしたときも守屋とともに反対している。その後、守屋の挙兵に呼応して、自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子と、竹田皇子の像を作り呪詛するが、反乱計画の不成功を知って彦人大兄に帰服。皇子の宮に行ったが、宮門を出たところで迹見赤檮に殺された。