上知令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上知令(じょうちれい、あげちれい)は、江戸時代後期に発令された幕令。上地令と表記する場合もある。
天保の改革を主導した老中首座水野忠邦は、アヘン戦争で清国がイギリスに敗れ、また日本近海にも外国船がしばしば出没する状況にてらし、将来、日本にも外国が攻めてくることもありうるとみていた。とくに江戸は政治の中心地、大坂は経済の中心地であるから、江戸、大坂近海に外国船が来襲した際の危機管理の重要性が課題となる。
これまで江戸・大坂十里四方は、幕府領(天領)、大名領、旗本領が入り組んでいた。そこで大名、旗本には十里四方に該当する領地を幕府に返上させ、かわりに、大名・旗本の本領の付近で替え地を幕府から支給するという命令を出し、江戸・大坂十里四方を幕府が一元的に管理する方針を固め1843年(天保14年)6月1日、上知令が発布された。
しかし、江戸大坂十里四方に領地を持つ大名旗本から反対が起こる。
例えば、水野忠邦の同僚で老中土井利位は本領は下総国古河藩であったが、河内国、摂津国にも飛び地をもっていた。土井家は河内、摂津の農民に借金があり、農民たちは上知と同時に借金が踏み倒されるのではと恐れ、土井家に繰り返し上知反対の強訴が発生した。また、御三家紀州藩からも反対が発生した。
反対派は土井利位を盟主に担いで上知令撤回と、水野忠邦の老中免職に動き出し、水野忠邦のおもだった腹心たち(町奉行鳥居耀蔵、勘定奉行榊原忠職)らも土井派に寝返り、鳥居にいたっては忠邦の機密資料を残らず土井に流すという徹底ぶりであった。
結局閏9月7日、忠邦が欠席のまま土井利位から上知令撤回の幕命が出され、閏9月13日、忠邦は老中免職となり、上知令ともども天保の改革は終焉した。