上杉房定
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上杉房定(うえすぎふささだ、? - 明応2年(1494年))は、室町時代・戦国時代の人物。越後の守護大名。上杉清方の子。上杉房朝の養子。上杉定昌、上杉顕定、上杉房能の父。越後守。相模守。民部少輔。
1449年、養父の房朝が没し、越後の守護職を継承した。房朝の時代から反抗的であった守護代の長尾氏の専横を憎み、長尾邦景・長尾実景を自刃・追放に追い込み、長尾氏庶流で自身の側近の長尾頼景・長尾重景を取り立て、一時は信濃の守護職も務めた。
鎌倉公方足利持氏の遺子の永寿王(後の足利成氏)の関東復帰を幕府に運動し、これを実現させたが、享徳の乱が勃発すると上杉氏の一門として成氏と敵対した。関東管領の上杉房顕(山内上杉家)が陣没した際には、長尾景信の求めにより実子の顕定を養子に送り、関東管領に就任させることに成功している。幕府と古河公方との和睦の成立にも尽力し、山内上杉家が扇谷上杉家と対立した際には実子顕定が当主の山内上杉家側に味方している。
晩年には細川政元が房定の援助を求めてひそかに越後を訪問したともいわれる。1494年、死去。