三途川
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三途川(さんずのかわ、さんずがわ)は、伝説上の川。またそれにちなんで名付けられた現実の川。
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[編集] 三途川(冥界)
此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川。仏教概念。仏説地蔵菩薩発心因縁十王経(→十王信仰 閻魔大王は十王のうちのひとり)が出典とされるが、この十王経は中国で成立したものであり、オリジナルの仏教の教義にはなく中国で変容した際に付け加えられたものである。この経典の日本への渡来は飛鳥時代と思われるが、信仰として広まったのは平安時代末期とされる。正式には葬頭河といい、また三途の川・三途河(しょうずか、正塚)・三瀬川・渡り川などとも呼ばれる。
三途川の名の由来は、初期には「渡河方法に三種類あったため」であるという。善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた。
しかしながら、平安時代の末期に、「橋を渡る(場合がある)」という考え方が消え、その後は全員が渡舟によって渡河するという考え方にシフトする。渡船の料金は六文と定められており、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が以来ずっと続いている(現在では、文という貨幣単位がないこと・火葬における副葬品制限が強まっていることから、紙に印刷した六文銭が使われることが多い)。また、三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に渡し賃のかわりに衣類をはぎとることになっていた。この二人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象としてブームとなった。
三途川の河原は「賽の河原」と呼ばれる(「賽の河原」と呼ばれる場所も、後述の恐山のものをはじめとして、日本各地に存在する)。
なお、この世とあの世を分ける川があるという考えはある程度には普遍的なもので、仏教概念として三途川思想が渡来する以前より、日本には「境界としての川」のイメージがあったという説もある。また、ギリシア神話でも、この世とあの世を分けるステュクス・アケロンという川が想定されており、そこにはカロンという渡し守がいることになっている。
[編集] 三途川(群馬県)
群馬県甘楽郡甘楽町を流れる小河川。水源地は、上信越自動車道の甘楽パーキングエリアの南側。その後白倉川と合流し、鏑川と合流し、利根川と合流する、利根川水系の支流のひとつである。水源地から白倉川との合流地点までは約2.5km。上信越自動車道のほか、大きなものだけでも国道254号線(中仙道の脇街道)や上信電鉄の橋がかかっている。国道254号線の橋は「三途橋」というが、一般道の橋であるため誰でも渡ることができ、通行料も徴収されない。また、この三途橋のたもとには、奪衣婆をまつった姥子堂がある。
[編集] 三途川(千葉県)
千葉県長生郡長南町を流れる小河川。「さんずがわ」と読む。水源地は長南町千田字鍛冶屋谷。一宮川の支流の一つで、途中で長南町蔵持から流れる裏川と合流し、長南町と茂原市が接するあたりで一宮川と合流する。水源地から一宮川との合流地点までは約4.5km。
[編集] 三途川(宮城県)
宮城県蔵王町を流れる小河川。水源地は蔵王町賽の磧のあたり。その後濁川と合流し、松川と合流し、白石川と合流し、阿武隈川と合流する、阿武隈水系の源流となる谷川のひとつ。水源地から濁川との合流地点までは約1.8km。周辺には特に宗教的施設などはないという。
[編集] 三途川(青森県)
青森県のむつ市と大畑町にまがたる霊場恐山は、宇曽利山湖を取り囲む一帯のことだが、この宇曽利山湖から流出する正津川を、別名で三途川と呼ぶ(そもそも正津川も、仏教概念における三途川の呼称のひとつだが)。宇曽利山湖の周辺には、ご丁寧にも賽の河原と呼ばれる場所もあり、積み石がされている。