一和会
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一和会(いちわかい)は、神戸市に本拠を置き1980年代に活動した日本の暴力団。
1984年6月、山口組の4代目組長に若頭・竹中正久(竹中組組長)が就任したことに反対する組長代行・山本 広(山広組組長)ら山広派が山口組から分裂して結成した。 組長代行補佐兼本部長・小田秀臣(小田秀組組長)、福井組組長・福井英夫、弘田組組長・弘田武志、黒澤組組長・黒澤 明といった超大物も参画すると見られたが、彼らは参加せずに引退した。
発足時会の名称は「かずわかい」であったがマスコミが「いちわかい」と呼称したため、以後いちわかいを使用。当初は山口組の礎を築いた有名な組長が多く山口組より優勢だったが、強力な切り崩しによって次第に劣勢に立たされていった。 これを挽回するために竹中暗殺を計画し、竹中行きつけのマンションに部屋を借りるなど周到な準備を行って、1985年1月、竹中と、若頭・中山勝正(豪友会会長)、警護役の若中・南 力(南組組長)の3人を射殺し、山口組の序列1位、2位を一挙に倒し衝撃を与えた。 しかし、このことが逆に山口組側からの激しい報復を招くことになった。
山口組との抗争(山一抗争)の長期化で勢力は激減し、1988年5月には、三代目山口組で組長代行補佐まで務めた一和会序列2位の副会長兼理事長・加茂田重政(加茂田組組長)が引退して加茂田組を解散し、会長・山本宅に爆発物を用いた攻撃が行われたことなどもあって、それから数ヵ月のうちに最高幹部のほとんどが一和会を脱退するに至った。 1989年3月、山本は引退し、一和会を解散した。
一和会の最高幹部だった佐々木道雄(故人)が晩年に遺した所謂「佐々木文書」(未出版)は、かなりの量であるが、三代目山口組組長・田岡一雄の側近として知恵袋と呼ばれた男の冷静な視線で、晩年の田岡が市民社会の反発を招かない安定路線を敷こうとしていた事が記述されている。