ロシア帝国内務省警察部警備局
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ロシア帝国内務省警察部警備局(―ていこくないむしょうけいさつぶけいびきょく、Охранное отделение Департамента полиции Министерства внутренних дел)とは、帝政ロシアの政治秘密警察。オフラーナ(охрана)、オフラーンカ(охранка)としても知られる。
1866年、アレクサンドル2世暗殺未遂以後、ペテルブルグ特別市長附属秩序警備・公安局として創設された。定員は12名だった。1880年から、警備局は、内務省警察部直属となった。
19世紀末、労働者を扇動する社会・民主主義者を警戒した政府は、ペテルブルグ警備局を強化した。警備局の弾圧により、レーニンの労働者階級解放闘争ペテルブルグ同盟は大打撃を受け、レーニン自身も逮捕・投獄された。
モスクワ警備局は、1880年に創設された。当初、その定員は少数であり、1889年当時、6人に過ぎなかったが、遥かに多数の非公式の定員が存在していた。これは、警備外部勤務(охранная наружная служба)と称され、革命派中にも「密偵」を有していた。当時、モスクワ警備局は、5万ルーブルの予算を有していたが、その内、60%が外部監視、捜索及びエージェントの維持に支出されていた。エージェントの中で特に有名なのはロマン・マリノフスキーで、彼は1912年のボリシェヴィキ独立後の最初の中央委員会および国会議員にまでなった。
首都警備局には、官房の外、外部監視課とエージェント課の2つの課が存在した。エージェント課では、エージェント、並びに郵便局附属の「黒い執務室」(черный кабинет)での信書の検閲から得られた全情報が分析された。エージェントからもたらされる情報は、警察当局に極めて重要視され、警備局長と県憲兵局に常に回覧されていた。
1905~1907年の革命後、ロシア全土で60の警備局が数えられた。1914年、県憲兵局と鉄道憲兵局が強化され、革命運動が弱まったことと関連して、警備局は大都市にのみ残された。
1917年のロシア革命後、オフラーナの職員の一部はチェーカーへ取り込まれた。