マルクス・クラウディウス・マルケッルス
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アウグストゥスの後継者候補のマルクス・クラウディウス・マルケルスについてはマルケッルスを参照。それ以外はマルケッルス (家族名)を参照。
マルクス・クラウディウス・マルケッルス(Marcus Claudius Marcellus, 紀元前268年 - 紀元前208年)は、古代ローマの第二次ポエニ戦争時の将軍、政治家。ハンニバルに対して果敢に戦闘を仕掛けローマの剣と称された。「ll」を促音で表記しないことも多いためマルクス・クラウディウス・マルケルスとも表記される。
マルクス・クラウディウスの息子として生まれ、第一次ポエニ戦争に参加。シチリア島でカルタゴ軍と戦っている。その後アエディリス・クルリスやアウグルにも就任した。
紀元前223年に辞任したガイウス・フラミニウスとフリウスのあとの執政官(コンスル)に就任し、南下し始めていたガリア人に対することになった。同僚コンスルはグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス。紀元前222年のガリア人の一派ガエサティ族との戦闘ではその王ブリトマトゥスに一騎打ちで勝利し、ローマで最高の戦利品とされるスポリア・オピマを得た。このスポリア・オピマを得たのはマルケッルスが3人目であり、また最後でもあった。この戦闘ののちメディオラヌム(現在のミラノ)を攻撃中のスキピオの救援に赴き、メディオラヌムを陥落させた。ローマに帰還後、マルケッルスのみが凱旋式を挙行した。
紀元前213年にハンニバルがイタリアに侵入し第二次ポエニ戦争がはじまる。カンナエの戦いの敗北後ローマはファビウス・マクシムス・クンクタトルの「持久戦法」を採用していたが、マルケッルスはハンニバル軍に対して果敢に戦闘を仕掛けた。
またローマを裏切りハンニバル側についたシチリア島のシラクサの攻略も担当し、これを陥落させている。このときシラクサの防衛にはアルキメデスも参加しておりマルケッルスらローマ軍を苦しめた。シラクサ陥落に際してはマルケッルスはシラクサ市民の殺害を兵士達に禁じ、略奪を最小限に抑えた。しかしアルキメデスは配下の兵によって殺されている。マルケッルスはアルキメデスを殺害した兵を自分の周りから遠ざけたという。
シラクサを陥落させた後イタリアに戻りハンニバルを追跡していたが、敵対者の策動によりマルケッルスはシラクサから不当な扱いをした旨で元老院に訴えられた。しかし無罪を得、こののちシチリア島は全島がマルケッルス家のクリエンテスとなった。
戦場に復帰したマルケッルスは度々ハンニバルと戦闘を重ねながら、勝敗に関わりなくハンニバル軍を追跡し続けた。マルケッルスに悩まされたハンニバルは「ファビウスは教師だがマルケッルスは敵だ」と語ったといわれている。しかし紀元前208年にマルケッルスは伏兵にかかり命を落とした。