ポルトガル領ギニア
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ポルトガル領ギニアとは、ポルトガルがかつて西アフリカに領有していた植民地のひとつである。現在のギニアビサウの領域に相当する。
[編集] 歴史
1946年にポルトガルがこの地域一帯の領有を宣言。1450年頃に金、奴隷などの交易品を求めて西アフリカ沿岸を航海したポルトガルの探検家ヌノ・トリスタンがこの地域に到達した。
ポルトガル領ギニアは当時は西アフリカの伝統王国の一部であり、ナウラ族などが塩の交易と稲作が行なわれていた。
1600年代には、地元の民族の助けにより、ポルトガルをはじめ、フランス、イギリス、スウェーデンなどのヨーロッパ諸国による西アフリカ沿岸での奴隷交易が盛んになる。
西アフリカから取引された奴隷の数を正確に知ることは不可能であるが、現在ではその数は約1,000万人と推定されており、そのうちの約37%がポルトガルによりブラジル植民地へと連れていかれたものといわれている。ギニアビサウのカチェウは西アフリカで最も大きな奴隷市場のひとつであった。
1765年、ビサウがポルトガル領ギニア植民地の首都として建都される。
1800年代、奴隷制の廃止以降、奴隷交易は廃れていくが、小規模な非合法な奴隷交易は存続していた。
ポルトガルが4世紀もの間この地域を支配していたが、植民地内陸部は他のヨーロッパの国に分割されていった。に植民地の主要商業拠点であったカザマンス川流域を含めた領域がフランス領西アフリカとなった。また、イギリスがボラマ島の植民地化を試み、ポルトガルとの間で戦争直前の危機となり、アメリカ合衆国のユリシーズ・S・グラント大統領の仲裁により、ポルトガルの領有と決定した。
これまでは行政上ポルトガル領ギニアはカーボベルデ植民地の一部であったが、1879年に単独の植民地となった。
20世紀に入り、ポルトガルは、沿岸のイスラム教徒の民族の力を借り、内陸部のアミニストの排疎運動を始めた。内陸部及び離島地域の植民地支配は混迷し、ビジャゴ諸島が完全に政府支配下になるのは1936年以降であった。
1951年、ポルトガルの植民地法の改正により、ポルトガル領ギニアはポルトガルの海外領土となる。
1956年、アミルカル・カブラルが、ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を結成し、ポルトガル領ギニアの独立運動が始まる。PAIGCはそれまでは比較的穏健な団体であったが、1961年からポルトガル政権に対してゲリラ戦を展開、海外領土の独立を宣言し、ギニアビサウと改称した。
1974年のカーネーション革命によるポルトガルの政権交代に伴い、PAIGCとポルトガル政府との間で独立交渉がもたれ。1974年9月10日にギニアビサウの独立が承認され、1973年に暗殺されたアミルカルの弟であるルイス・カブラルが初代大統領に就任した。