パーヴェル・グラチョフ
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パーヴェル・セルゲーエヴィッチ・グラチョフ(Pavel Sergeevich Grachev、1948年1月1日 - )は、ソビエト連邦およびロシアの軍人、政治家。ロシア連邦初代国防相。上級大将。ソ連邦英雄。
1948年トゥーラ州に生まれる。リャザン空挺高等指揮学校、フルンゼ軍事アカデミーを卒業する。1981年からアフガニスタン戦争に従軍し、空挺部隊の副連隊長、連隊長として勤務。1983年、ソ連領内に戻り、副師団長。1985年、師団長としてアフガニスタンに戻る。アフガン戦争従軍時、「最小限の人的損失の下での戦闘任務の遂行」によりソ連邦英雄称号を授与された。
1990年、参謀本部アカデミーを卒業し、ソ連空挺軍副司令官に任命。同年12月から司令官。
1991年8月のソ連8月クーデターでは当初、国家非常事態委員会からエフゲニー・シャポシニコフ空軍総司令官(後、ソ連国防相、CIS統合軍総司令官)と相談の上、エリツィン陣営に参加を表明。以後、エリツィンに重用される。クーデター後、ソ連国防省第一次官。1992年1月からCIS統合軍第一副総司令官。
1992年5月にロシア連邦国防省が設置されたことに伴い、初代国防大臣に就任する。国防相としては、エリツィンの意に諾々と従うケースが多く、1993年モスクワ騒乱事件では、エリツィンの命令に従って、最高会議ビルを砲撃させた。また、1994年の第一次チェチェン戦争ではチェチェン武装勢力を軽視し、鎧袖一触だと言わんばかりの態度であったが、逆に政府軍に大損害を与え、現在に至るチェチェン問題を招く結果となった。戦局のまずさに加え、兵器の横流しに手を染めていたという汚職疑惑もあり、政敵であったアレクサンドル・レベジが安全保障会議書記に就任し、エリツィンにグラチョフの解任を要求したため、1996年4月国防相を解任された。後任の国防相には、レベジ派のロジオノフが就任した。1998年国営兵器・装備輸出会社(ロスヴォオルジェーニエ)の最高軍事顧問に就任した。
[編集] パーソナル
レーニン勲章、赤旗勲章、赤星勲章、「ソ連軍における祖国への奉仕に対する」勲章、アフガン赤旗勲章、「個人的勇気に対する」勲章を受章。ソ連邦英雄。
- ロシア連邦国防相
- 1992年-1996年
-
- 先代:
- 初代
- 次代:
- イーゴリ・ロジオノフ