バヤズィト2世
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バヤズィト2世(1447年-1512年5月26日)は、オスマン帝国の第8代スルタン。第7代スルタン・メフメト2世の子(在位:1481年-1512年)。
即位前はアマスィヤの太守を務めていた。1481年、父がイタリア遠征途上で陣没すると、弟のジェムとスルタン位をめぐって争い、これに勝利して正式に父の後を継いでスルタンとして即位した。
即位後は父のように西洋のような異教徒の文明を導入することを嫌って、これを取りやめて独自の文化によるイスラム系の大学の創設や寺院の建立、そして父時代に拡大した領土の基盤固めを行なった。しかしバヤズィト2世は信心深い敬虔なムスリムであったが、優柔不断な性格から政治家としては三流で、臣下からの人望も乏しかった。このため、イランのサファヴィー朝から干渉を受けて、国内に混乱が広がったと言われている。そして、このような父の統治に不満を持った息子・セリム1世(冷酷王)により、1512年にスルタン位を廃されて幽閉されてしまった。そして、同年のうちに死去している。
死因は失意からの病死と言われているが、セリム1世がバヤズィト2世廃位と同時に多くの反抗的な親族を殺害している経緯から見て、恐らくはバヤズィト2世もセリム1世に毒殺されたものと思われる。