ジェム・スルタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジェム(Cem または Djem とも、1459年 - 1495年)はオスマン帝国の帝位請求者。父親は「征服者」メフメト2世。スィヴァス、トカト、アマスィアの総督であった皇太子バヤズィト2世を兄とし、自らもカラマンとコンヤの総督であった。
メフメト2世が崩御すると、大宰相カラマニ・メフメト・パシャがバヤズィト2世とジェムのもとに使者を送るも、ジェムのもとに派遣された使者は、道中でアナトリア副官のシナン・パシャに捕縛されたため、ジェムは父親の訃報を兄よりも4日遅れで知らされることになる。よく分からない理由から、イスタンブールの親衛隊が1481年5月4日に蜂起し、カラマニ・メフメト・パシャを事件の成り行きで殺害する。バヤズィト2世の不在につき、その息子コルクト王子が摂政として王権を握った。
5月21日にバヤズィト2世がイスタンブールに上陸して、帝位を宣告する。それからわずか6日後に、ジェムが4000人の兵士とともにイネギョルの町を占領。皇帝バヤズィト2世は、大宰相アヤス・パシャ配下の軍を送り込み、弟の殺害を命令する。5月28日に、ジェムはバヤズィト軍を敗走させ、自分こそがアナトリアの君主であり、ブルサを首都に定めると宣言、バヤズィトにヨーロッパ側の領土を譲って二人で帝位を分かち合うことを提案する。バヤズィトは烈火のごとくに怒ってその案を拒絶し、ブルサに進軍した。イェニシェヒル近郊の町で決戦となり、ジェム軍が敗れる。ジェムは家族連れでマムルーク朝のカイロに避難せざるを得なくなる。
カイロでは、兄バヤズィト2世から、帝位を諦める見返りとして、100万アクチェ分の銀貨の提供を申し入れる文書を受け取るが、ジェムはこれを拒否して、翌年にアナトリアで出兵する。1482年5月27日にコンヤを攻囲するが、間もなくアンカラに引き下がらざるを得なくなる。遠征を断念してカイロに戻ろうとするが、エジプトへの道のりはすべてバヤズィト2世の手に落ちていた。
そうこうするうち、聖ヨハネ騎士団の団員ピエール・ドビュッソンに招かれ、6月29日に賓客としてロードス島を訪れるが、騎士団員に裏切られ、囚人としてフランス王国に送られた。バヤズィト2世はフランスに使者を送り、弟の身柄をヨーロッパに留め置くことを要求し、身代金がわりの純金を例年支払うことに同意している。
教皇インノケンティウス8世は、ジェムを利用して新たな十字軍遠征の組織を計画するが、ヨーロッパ諸国の王侯貴族から拒否された。またインノケンティウス8世は、ジェムにキリスト教への改宗を持ちかけて拒否されている。いずれにせよバヤズィト2世がバルカン半島のキリスト教諸国への遠征を目論む限り、ジェムの身柄はいつでも利用されたのであり、教皇はこの帝位請求者を解放すると言って威圧したのである。
1495年2月25日にカプアにて他界。バヤズィト2世は3日間の服喪を宣言する。またバヤズィト2世は、弟のなきがらをイスラム教に則って葬るように要求したが、ジェムのなきがらがオスマン帝国に戻されたのは、死後4年めのことだった。ブルサに埋葬されている。
ジェムは、ヨーロッパで長年にわたって人質としての生活を余儀なくされたが、一方でキリスト教徒の貴族並みの地位と称号も与えられていた。たとえばアレクサンデル6世とシャルル8世は、ジェムとその長男をサング公(Prince de Sang)として遇した。ジェムの子孫はカトリックに改宗して、マルタの貴族サイード公(Principe de Sayd または de Said)としての立場を与えられている。