バイアリーターク
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![]() バイアリータークの肖像 by John Wootton |
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性別 | 牡 |
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毛色 | 黒鹿毛 |
品種 | ターク種又はアラブ種 |
生誕 | 1679年頃(1680年とも) |
死没 | 1705年 |
父 | 不明 |
母 | 不明 |
生産 | 不明 |
生国 | トルコ付近 |
馬主 | ロバート・バイアリー |
調教師 | - |
競走成績 | 1戦1勝(記録に残る物のみ) |
獲得賞金 | 不明 |
バイアリーターク(Byerley TurkまたはByely Turk、1679年 - 1705年)は、イギリスの軍馬・種牡馬。後世にサラブレッド三大始祖の1頭として記録される(*但し4代孫のヘロドを三大始祖とすることもある)。父方直系子孫はそのヘロド(Herod)を通じて一時大繁栄したが現在は衰退している。
名前および品種について、ジェネラルスタッドブックはバイアリーターク(Byely Turk)、つまりターク種と記載しているが、残された絵画での特徴はアラブ種のもので、ターク種ではなく単にトルコ生まれのアラブ馬との説もある。名前の綴りもByely Turkではなく、馬主であるロバート・バイアリー(Robert Byerley)から正しくはByerley Turkだったのではないかと考えられている。
[編集] 生涯
バイアリータークについて知ることのできる資料はゴドルフィンアラビアンと同様に少ないが、その生涯が半ば伝説と化しているゴドルフィンアラビアンに比べれば比較的信頼できるといえる。バイアリータークは、元々オスマン帝国の軍馬であったが、1688年(1687年?)イギリスとオスマン帝国の間に起こった「ブタペストの戦い」の際、イギリス第6近衛竜騎兵隊のバイアリー大尉が敗走するトルコ軍から奪い取ったと言われている。この他にウィーン付近で捕獲したとも言われている(どちらも第二次ウィーン包囲後の戦争)。この時8歳と推定され、生年1679年説はここから来ている。
生地は、当時オスマン帝国があったトルコ付近と推測されているが、ロバート・バイアリーが捕獲する以前については全くの不明であり根拠はない。品種についても前述の通りアラブ種かターク種かはわかっていないが、左上のジョン・ウートン作の絵画ではアラブ種の特徴をよく示しており、当時はトルコ付近から輸入された馬は全てタークと称していただけであり、バイアリータークは実際にはアラブ種だったのではないかという意見が多い(ただしターク種(トルコ馬)はアラブ種を使って改良されたため特徴が似ていてもおかしくはない)。
ブタペストの戦いの後、ロバート・バイアリーは大佐に昇進し、バイアリータークも大佐の元で軍馬として活躍することになる。1689年アイルランドに派遣され、1690年アイルランドのボイン川の戦いでは、大佐は愛馬を駆りウィリアム3世側として参戦、反乱軍鎮圧に尽力した。バイアリータークに関わる具体的は、敵に包囲された際、バイアリータークの素早さのおかげで難なく脱出した話が残っている。他にも武勲を立て優秀な馬であった。
サラブレッドの祖先としては、三大始祖の中で最も古く1688年イギリスに渡った。三大始祖の他2頭は競走には使われていないが、バイアリータークについては1690年(ボイン川の戦いの同年)に北アイルランドのダウンロイヤルでロバート・バイアリーが、所有する軍馬(おそらくバイアリータークのこと)で競馬に勝ったという話がある。なお他にも出走した可能性はあるが、記録に残っているのはこの1戦のみである。1691年頃からロバート・バイアリーのミドリッジグランジュ、のちヨーク郊外のゴールズバラで種牡馬として供用されたが、繁殖牝馬の質、数ともに悪く、バスト、ジグを輩出した程度に留まり、勝ち馬はわずか6頭、直仔の成績としては同時期に輸入された東洋系の馬の中でも特に優れた存在でもなく直系子孫がすぐに消え去ってもおかしくはなかった。だが、玄孫のヘロドとその仔ハイフライヤーを通じて大勢力を築く事に成功、父方直系子孫は現在でも残存し、バイアリータークはダーレイアラビアン・ゴドルフィンアラビアンと並び三大始祖と呼ばれる様になっている。
ダーレイアラビアン、ゴドルフィンアラビアンが種牡馬として活躍したのに比べればバイアリーターク自身はそれほど優れていたわけではない、他の2頭はそれぞれの根幹種牡馬であるエクリプス、マッチェムの直系子孫以外からもクラシック優勝馬を輩出しているが、バイアリータークはヘロドの直系子孫以外はクラシック競走の優勝馬を出すことができなかった。ただ、バイアリータークは、バスト・ジグ以外にもファミリーナンバー3,17,41の基礎牝馬を生み出しており、現在のサラブレッドに対する血量は4-5%程度と比較的大きい。これはゴドルフィンアラビアン(14%強)、ダーレイアラビアン(7%強)に比べれば小さいが、サラブレッドの基礎となった馬たちの中でも上位に入る優秀な数値である。
1705年死亡し、遺体はゴールドバラのどこかに埋葬されたという。子孫についてはヘロド系を参照のこと。
[編集] 主な産駒
- バスト(Basto) いくつかのマッチレースに勝った記録が残っている。
- ジグ(Jigg) ヘロドの曽祖父
- ブリストル(Bristol's (or Mostyn's))
- ラトランドズブラックハーティ(Rutland's Black Hearty) 産駒活躍
- スプリット(Sprite) 数勝
- アーチャー(Archer)