ズデネク・ゼーマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ズデネク・ゼーマン(Zdeněk Zeman、1947年3月12日 - )は、チェコ・プラハ出身のサッカー指導者。日本では「ズデネク・ゼーマン」の表記が一般的だが、原語での発音は「ズデニェク・ゼマン」に近い。
目次 |
[編集] 経歴
地元のプラハ大学でフィジカルトレーニングを学び、1968年に起こった「プラハの春」を契機にイタリアへ渡り、ユヴェントスなどで活躍した叔父のチェストミール・ヴィツパーレク Čestmír Vycpálek の元で過ごした事で、彼のサッカー哲学に大きな影響を与えたとされている。
選手としては華々しい活躍は無く、逆にフットボール以外に、バレーボール、野球などアマチュアレベルで活躍していた。
主な監督経歴としてはパルマ、フォッジャ、メッシーナなどで監督としてキャリアを積み、 1989年に再就任したフォッジアにおいてセンセーショナルなサッカーを披露し、その名をイタリア中に轟かせた。その成績が認められ1994年に名門SSラツィオの監督に就任し、1997年には同じ町のASローマに移籍。ここで後述の有名なドーピング発言をする。その後はトルコのフェネルバフチェ、SSCナポリ、サレルニターナ・カルチョ、USアヴェッリーノ、USレッチェ、ブレシア・カルチョと渡り歩き、2006年から再びレッチェの監督に就任。
[編集] 戦術
彼のサッカーの特徴は一貫した4-3-3システムにある。ゼーマン曰く4-3-3システムが一番バランスが取れたフォーメーションで、ピッチ全体をチームで動き、カバーする。前線からプレスをかけ、DFラインはセンターサークル付近まで上げてコンパクトにしオフサイドトラップを多用する。このような戦術には4-3-3が一番適しているという。スペクタクルなサッカー、見てい楽しいサッカー、このように表現される事が多い。守りが主体のイタリアサッカー界の中で彼が標榜する超攻撃的なサッカーはある意味革命とまで言われた。
しかしゼーマンのサッカー理論は難解といわれ、選手の理解度が重要となり、チームとして機能するのはかなり時間がかかる。その為安定した戦いをシーズンを通じて出来ない。また結果より内容を重視するためタイトルには縁の遠い監督とも言える。
[編集] 人物
無名の選手の発掘が得意なことで有名。そのために予言者とも称される。彼が指導したジュゼッペ・シニョーリ、アレッサンドロ・ネスタやEURO1996で活躍したものの世界的知名度はまだなかったパベル・ネドベドなどはいい例で、ゼーマンは彼らは間違いなくワールドクラスの選手に化けると予言し見事的中させた。ASローマ時代に指導したトッティを世界レベルへ変貌させたのもゼーマンの手腕である。それ以外にも無名選手を数多くイタリア代表クラスに成長させた。近年ではヴァレリ・ボジノフやミルコ・ヴチニッチを世界レベルへ成長させている。
ゼーマンは思った事をすぐ口にするタイプでもある。最たる例が1998年、ユヴェントスの一部の選手がドーピングをしていると発言で、シーズン途中だったこともあり大きな波紋を呼んだ。イタリア全土を震撼させたこの発言は、名指しされた選手やチームやイタリア全土から大きな批判を浴びた。(この発言が元でゼーマンはイタリア北部のチームでの指揮が今日まで出来なくなったが、2006年3月から6月まではブレシアで指揮をとった。もっとも本人は北部チームではあまり指揮する意志がなかったようである。)
その一方でこのドーピングに関わるゼーマンの発言を擁護するイタリア人もいたのも事実である。結果としてこの発言はイタリアサッカー界に潜む闇の部分に一石を投じる結果となった。ゼーマンもこの発言の真意を、サッカー界、スポーツ界にド-ピングが存在する事を好まないからとしている。
かなりのヘビースモーカーとしても有名であるが、ナポリ監督就任時に一度禁煙している。複数年契約をしないもゼーマンの特徴である。理由は1年でゼーマンのサッカーに満足できなければ別の監督にする選択肢をチーム側に与えるためらしい。当然自らがチームに対して不満があれば自ら去る選択肢を残しているともいえる。
現ヴァンフォーレ甲府の大木武監督は自分のサッカーはゼーマンの影響を受けた公言している一人である。事実、4-3-3システムと攻撃サッカーの信奉者である。
[編集] 指導者経歴
- パレルモユース 1981-1983
- リカタ(イタリア) 1983-1986
- フォッジャ(イタリア) 1986-1987、1989-1994
- パルマ(イタリア) 1987
- メッシーナ(イタリア) 1988-1989
- ラツィオ(イタリア) 1994-1997
- ローマ(イタリア) 1997-1999
- フェネルバフチェ(トルコ) 1999-2000
- ナポリ(イタリア) 2000-2001
- サレルニターナ(イタリア) 2001-2003
- アヴェッリーノ(イタリア) 2003-2004
- レッチェ(イタリア) 2004-2005、2006-
- ブレシア(イタリア) 2005-2006
カテゴリ: チェコのサッカー選手 | チェコのサッカー指導者 | 1947年生