スティーヴ・ウィンウッド
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スティーヴン・ローレンス「スティーヴ」ウィンウッド(Stephen Laurence "Steve" Winwood, 1948年5月12日 - )は、イギリス・バーミンガム州出身のミュージシャン。兄マフ率いるスペンサー・デイヴィス・グループの一員として「ギミー・サム・ラヴィン」などで1960年代中盤に人気を博し、グループを脱退後はトラフィックのメンバーとしても成功を収めた。1970年代後半以降はソロ・アーティストとして活動。主なヒット曲に「ハイヤー・ラヴ」「ロール・ウィズ・イット」などがある。
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[編集] 経歴
バーミンガム州郊外のグレート・バーで生まれる。音楽の才能は幼少時代から卓越したものがあり、10代前半のときには兄マフ・ウィンウッドが結成したジャズ・バンドの看板的存在として君臨していたという。 またマディ・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカー、T-ボーン・ウォーカー、ハウリン・ウルフ、B・B・キング、サニー・ボーイ・ウィリアムスン、エディ・ボイド、オーティス・スパン、チャック・ベリー、ボ・ディドリーといった大御所ミュージシャン達のバックでハモンドオルガンやギターを演奏した。
15歳のとき、マフと共にスペンサー・ディヴィス・グループに参加。1964年にジョン・リー・フッカーのカバーであるシングル「ディンプルズ」でデビュー。シングル「キープ・オン・ランニング」が英国のチャートで1位となり、この曲の成功によって彼は一躍スターとなる。続いて「サムバディ・ヘルプ・ミー」「ギミ・サム・ラヴィン」「アイム・ア・マン」を録音した後、彼は1967年にグループを脱退。クリス・ウッド、ジム・キャパルディ、ディヴ・メイソンらとトラフィックを結成する。 トラフィックで『ミスター・ファンタジー』『トラフィック』など4枚のアルバムをリリースした後1969年には一時的にトラフィックとしての活動を休止しエリック・クラプトンらとブラインド・フェイスを結成。しかしながらバンドはアルバム『スーパー・ジャイアンツ』のリリースとアメリカ・ツアー後にあえなく解散する。その後、一度はソロ・アルバム作成を計画し『マッド・シャドウズ』というタイトルでのレコーディングを進めたが、結局トラフィックとしての活動を再開し、『マッド・シャドウズ』は『ジョン・バーレイコーン・マスト・ダイ』として、再開トラフィック初のアルバムとなる。グループは1974年に『ホエン・ジ・イーグル・フライズ』のリリースを最後に終焉を迎えるのだが、その間には腹膜炎を患って危険な状態に陥るというハプニングも起きている。また、1973年には、ロンドン・フィルハーモニック・オーケストラによるロックオペラアルバム『トミー』にも参加。
その後、日本人パーカッショニストのツトム・ヤマシタによるGOをはじめとするいくつかのプロジェクトへの参加を経て、1977年にスティーヴは自らの名を表題にした『スティーヴ・ウィンウッド』でソロ・アーティストとしてデビューする。パンクブームの真っ只中にあってこのアルバムは今ひとつ大きな成功には至らなかったものの、その後1980年にシングル「ユー・シー・ア・チャンス」がビルボードで最高7位まで上昇するヒットとなり、この曲の成功に煽られる形で同曲が収録されたアルバム『アーク・オブ・ア・ダイバー』も全米5位、全世界でのセールスのべ700万枚という大成功を収めた。しかし次作『トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト』がセールス的に失敗。 1986年には傑作と名高い『バック・イン・ザ・ハイ・ライフ』を発表。ポール・サイモンやジェイムズ・テイラー、ジョージ・ハリスンなどのアルバムを手がけたことで知られるラス・タイトルマンをプロデューサーに、曲作りのパートナーにセリーヌ・ディオンやエリック・クラプトンなどへの作品提供で知られる作詞家のウィル・ジェニングスを迎えて制作されたこのアルバムは、全米3位まで上昇するヒットとなっただけでなく、グラミー賞を3部門も受賞した。また、このアルバムからシングル・カットされた「ハイヤー・ラヴ」は彼にとって初の全米№1ヒットとなり、ここに至って音楽家としてのスティーヴの活動は頂点に達した。この勢いを受け1988年にリリースされた『ロール・ウィズ・イット』では、シングル・カットされた同名曲が再び全米1位を獲得、また、アルバムも初の全米1位を記録した。1989年と1991年には来日公演も行われた。
1990年代以降は3枚のオリジナル・アルバムと、ジム・キャパルディとの共作によるトラフィックとしての久々のアルバム『ファー・フロム・ホーム』(1994年)を発表。現時点での最新作は2003年に自己レーベル「ウィンクラフト」から発売された『アバウト・タイム』である。翌年にはフジロック・フェスティバルへの参加という形で3度目の来日公演が実現した。また同年の3月には、1960年代の活動の功績が認められ、トラフィックのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たしている。これに伴ってトラフィックとしての活動再開も予定されていたといわれているが、2005年1月にキャパルディが胃癌のために亡くなったことからこの話は立ち消えになったものと思われる。
[編集] ディスコグラフィ
[編集] アルバム
- Steve Winwood (1977) #22 US
- Arc Of A Diver (1981) #3 US
- Talking Back To The Night (1982) #28 US
- Back In The High Life (1986) #3 US
- Chronicles (1987) #26 US
- Roll With It (1988) #1 US
- Refugees Of The Heart (1990) #27 US
- Junction Seven (1997) #123 US
- About Time (2003) #126 US
[編集] Singles
- "While You See A Chance" (1981) #7 US
- "Arc Of A Diver" (1981) #48 US
- "Still In The Game" (1982) #47 US
- "Valerie" (1982) #70 US
- "Higher Love" (1986) #1 US - 1 week, #13 UK
- "Freedom Overspill" (1986) #20 US
- "The Finer Things" (1987) #8 US
- "Back In The High Life Again" (1987) #13 US
- "Valerie" (remix) (1987) #9 US, #19 UK
- "Roll With It" (1988) #1 US - 4 weeks
- "Don't You Know What The Night Can Do?" (1988) #6 US
- "Holding On" (1988) #11 US
- "Hearts On Fire" (1989) #53 US
- "One And Only Man" (1990) #18 US
[編集] 外部リンク
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