ジョン・ナッシュ
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ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア(John Forbes Nash, Jr. 1928年6月13日 - )は、アメリカ人の数学者。専門分野はゲーム理論と微分幾何学。1994年、彼は他の二人のゲーム理論の専門家、ラインハルト・ゼルテン、ジョン・ハーサニとともにノーベル経済学賞を受賞した。また、ハリウッド映画『ビューティフル・マインド』は、彼の数学者としての偉業と成功及び後の統合失調症に苦しむ人生を描いた作品であり、このため世間での彼の知名度は高い。
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[編集] 経歴
[編集] 幼少期~高校卒業
1928年6月13日生まれ。出生地はウェストバージニア州ブルーフィールドで、電気技術者の父と、英語及びラテン語の教師であった母の間に生まれた。幼い頃から、他人との共同作業を好まず、独りでいることを好み、また何事も自分の考えた方法で行うことを好む少年であった。
12歳の時、自室で科学実験を行い始める。この頃既に、彼が非常に聡明な頭脳の持ち主であると家族や友人は気付いていたが、その知的聡明さゆえに友人からは拒絶され、また彼自身も友人たちが興じているダンスやスポーツが、自分の実験や勉強に対して悪影響を及ぼすものであると信じていたようである。
高校は地元のブルーフィールド・カレッジに進学。この頃、E.T. Bellの論文"Men of Mathematics"を読み、後の専門分野となる数学に興味を持つが、電気技術者の父の影響で化学や電気工学を専攻する。
[編集] 大学入学~研究者としての成功
17歳の時、カーネギー工科大学にジョージ・ウェスティングハウス奨学生として進学。入学当初は専攻が化学であったが、教員の勧めで数学に変更。選択科目で国際経済学を学び、経済学に対する興味を持つ。この大学で学士号を取得し、1948年には修士号を取得。取得後、プリンストン大学に移り、ゲーム理論の研究を本格的に始める。この時、カーネギー工科大学での指導教官がプリンストン大学へと送った推薦書は「この男は天才。」と書かれただけの一行の文章であったという。
1950年、非協力ゲームに関する論文"Non-cooperative Games"でPh.D(博士号)を取得。この論文はアルバート・ウィリアム・タッカー教授の指導の下に書かれ、後にナッシュ均衡と呼ばれる非協力ゲームにおける均衡解に関する定義と特性が含まれていた。この論文を基に、後に彼は以下の三つの論文を発表している。
- "Equilibrium Points in N-person Games" (1950年、科学雑誌PNASにて発表)
- "The Bargaining Problem" (1950年4月、経済学雑誌Econometricaにて発表)
- "Two-person Cooperative Games" (1953年1月、経済学雑誌Econometricaにて発表)
この頃、彼はゲーム理論以外の分野でも重要な研究を発表している。
1951年、マサチューセッツ工科大学(MIT)に教員として赴任。1953年、当時の恋人であったエレノア(Eleanor Stier)との間に子供が生まれるが、結婚には至らなかった。
1957年2月、エルサルバドル出身でMITの学生であったアリシア(Alicia Lopez-Harrison de Lardé)と結婚する。1958年、29歳の若さでMITの終身職員の権利を得る。同年秋、アリシアが身篭る。
[編集] 闘病生活~快復
1958年、アリシアの妊娠と時期をほぼ同じくして、彼は神経を患う。1959年4月~5月にかけて病院で検査を受け、その結果彼は現在で言うところの統合失調症であると診断される。同年、MIT職員を辞職。ヨーロッパとアメリカを放浪し、1960年、プリンストン大学に復帰する。再び数学を研究する生活に戻るが、治療はその後も続き、1970年まで入退院を繰り返す。1970年頃から少しずつ回復の兆しを見せ始め、1978年にはジョン・フォン・ノイマン賞を受賞。1980年代後半には統合失調症から快復した。
時期は前後するが、彼は1963年にアリシアと離婚。しかし1970年、アリシアは彼を夫としてではなく、下宿人のような形で彼を引き取り、彼の闘病生活を支えることを決心。2001年に再婚するまで、彼の闘病生活を支え続けた。
1994年にはゼルデン、ハーサニとともにノーベル経済学賞を受賞。現在もプリンストン大学で数学の研究を続けている。
[編集] 参考資料
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