サミュエル・ドウ
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サミュエル・カニオン・ドウ(Samuel Kanyon Doe、1950年5月6日または1951年5月6日 - 1990年9月9日)は、1980年から1990年にかけてのリベリアの大統領。民族主義を基盤とした独裁と政治的反対者への苛烈な抑圧をその政治運営の特徴とした。
米国のグリーンベレーによる訓練を受けた彼は、内陸に住む部族クラン(Krahn)の出身であった。クランはリベリアの民のうちの多数派を構成するアフリカ先住民の部族であったが、長きにわたって、少数派であるアメリコ・ライベリアンによる政治的抑圧を受けていた。
こうした政治支配に不満を抱き、上級軍曹であった1980年4月12日に軍事クーデターを敢行、アメリコ・ライベリアンのウィリアム・R・トルバート大統領を暗殺し、その結果ホイッグ党と同党の主な支持基盤だったアメリコ・ライベリアンによる支配を終わらせた。なおドウが起こしたこのクーデターによりトルバートと26人の支持者が戦闘で死亡しており、ドウは10日後に13人の高官を公開処刑した。
彼の政治体制のもとで、リベリアの港は米国、カナダ、欧州各国など諸国の船に対して開かれ、かなりの外貨を得ると同時に多くの海外投資を集め、また租税回避地としての評判をも得るに至った。なお彼は彼独自の新通貨を発行したが、政権が崩壊した後、彼の出身である北部など一部の地域を除き価値がないとして使われていない。
統治機溝として人民救済評議会(PRC)が設置され、ドウ軍曹が大統領になった。憲法は停止されたが、1985年までに文民支配に復帰する事を約束した。アメリカの支持も取り付けていたが周辺諸国やチャールズ・テーラー率いるリベリア国民愛国戦線(NPFL)などによる武装介入が続き内戦が起きた。1991年にプリンス・ジョンソン率いるNPFLの派閥によって捕らえられドウは公開処刑され、ドウ政権は崩壊した。