ゴーストップ事件
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ゴーストップ事件(天六事件ともいう。)は、1933年に大阪市の天六交叉点で起きた出来事、およびそれに端を発する大日本帝国陸軍と日本警察の大規模な抗争。満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動き、国家の統制がきかなくなるきっかけの一つとなった。ゴーストップとは信号機を指す。
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[編集] 事件の経過
[編集] 発端
1933年6月17日午前11時40分頃、大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰労休暇中の陸軍第四師団第8連隊第6中隊の中村政一一等兵が信号無視をしたとして、交通整理中であった曽根崎署の戸田忠夫(中西忠夫)巡査が注意し、天六派出所まで連行した。その際中村一等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と反論した為つかみ合いの喧嘩になり、互いに負傷、中村一等兵は鼓膜損傷全治3週間、戸田巡査は全治一週間の怪我を負った。
この時騒ぎを見かねた見物人が大手前憲兵分隊へ通報し駆けつけた憲兵隊の伍長が中村を連れ出してその場は収まるが、その二時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せない」として曽根崎署に対して抗議した。当時、第8連隊の松田隊長が不在であったため、上層部に直接報告が伝わって事件が大きくなり、平和的に事態の収拾を図ろうと考えていた曽根崎署の高柳博人署長の考えもむなしく、21日には事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わっていた。
この後の当事者の事情聴取で、戸田巡査は「信号無視をし、先に手を出したのは中村一等兵である。」と、逆に中村一等兵は「信号無視はしていないし、自分から手を出した覚えはない。」と両者まったく違う主張を繰り返した。
[編集] 軍部と内務省の対立
6月22日、第四師団の井関大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍に拘る重大な問題である」と声明した。それに対して粟屋仙吉・大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と言明した。6月24日の寺内寿一第四師団長(寺内正毅の息子)と縣(あがた)忍大阪府知事の会見も決裂した。
この結果、問題は寺内と粟屋という軍部と警察(すなわち内務省)との対立の様相を示す。この議論は平行線を辿り、また、新聞をはじめとするマスメディアもこれを「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じたことによって過剰なほどの騒ぎとなった。
7月17日、中村一等兵は戸田巡査を相手取り、刑法百九十五条(特別公務員暴行陵虐)、同第百九十六条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第二百四条(傷害罪)、同第二百六条(名誉毀損罪)で告訴した。
8月24日、事件目撃者の一人であった高田善兵衛が憲兵と警察からの度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺、国鉄吹田操車場内で轢死体となって発見された。なお、この事件の処理に追われていた曽根崎署長の高柳は疲労で倒れ入院したが、7月18日その一報を知った寺内は井関に「事件で心痛のあまり病状が悪化すると気の毒なので、適当にお見舞いするように」と伝えたとの逸話がある。しかしその十日後、高柳は逝去した。
[編集] 終結
最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により白根竹介兵庫県知事が調停に乗り出し、11月19日に和解が成立した。11月20日、当事者の戸田と中村が仲介した大阪地方検事局・和田検事正の官舎で会い、互いに詫びたあと握手して幕を引いた。和解の内容は公表されていないが、警察側が譲歩したものだというのが定説となっている。
[編集] 事件の影響
結局この事件は軍と警察の面子の張り合いにすぎなかったが、解決を一番喜んだのは師団長の寺内だという。この後、現役軍人に対する行政措置は警察ではなく憲兵が行うこととされるようになり、軍部が法を超えて次第に国家の主導権を持つきっかけのひとつとなった。