コンスタンティノス5世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンスタンティノス5世”コプロニュモス”(Konstantinos V ギリシャ語表記:Κωνσταντίνος Ε' 719年-775年9月14日)は、東ローマ帝国イサウリア王朝の第2代皇帝(在位:741年-775年)。初代皇帝・レオーン3世の子。「コプロニュモス」は「糞」を意味するあだ名。
741年、父・レオーン3世の死により即位する。しかし即位の翌年、義理の兄弟であったアルタヴァストスに反乱を起こされて、一時皇位を追われてしまった。しかし皇帝として即位したアルタヴァストスはイコン擁護政策を採用したため、小アジアの国民の支持を得ることができず、小アジアのテマ(軍管区)の支持を受けたコンスタンティノスは都へ進軍してアルタヴァスドスを破り、翌743年にコンスタンティノス5世は皇帝に復位したのである。
コンスタンティノスは軍事に優れた手腕を発揮し、ウマイヤ朝の衰退に乗じて北シリアまで兵を進め、またアルメニアやメソポタミアでも大勝して国境を東へ押し戻し、東方で主導権を握ることに成功した。さらに帝国西部のブルガリアに9度も親征を行ない、多くの勝利を収めた。
ただし東方やブルガリアに集中せざるを得なかったため、751年イタリアにおける最後の帝国領・ラヴェンナをランゴバルド族に占領された。これによって東ローマ帝国によるイタリア中・北部における支配は終わり、ローマ教皇庁は東ローマ帝国から離反・自立を図るようになってしまった。また、コンスタンティノス5世は父のはじめた聖像破壊運動を推し進め、反対派の聖職者などを容赦なく弾圧・処刑した。このため後に「糞」という非常に不名誉なあだ名をつけられることになる。
コンスタンティノスは、775年、ブルガリア遠征中に陣没した。このためブルガリア問題を最終的に解決することは出来なかったが、ブルガリアを疲弊させることには成功したのである。
東ローマ帝国イサウリア王朝 | ||
---|---|---|
先代 |
次代 レオーン4世 |