ケルソ
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性別 | せん |
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毛色 | 黒鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1957年4月4日 |
死没 | 1983年10月16日 |
父 | Your Host |
母 | Maid Of Flight |
生産 | Bohemia Stable |
生国 | アメリカ合衆国 |
馬主 | Allaire du Pont (Mrs. Richard du Pont) |
調教師 | Dr. John Lee →Carl Hanford |
競走成績 | 63戦39勝 |
獲得賞金 | 1,977,896ドル |
ケルソ(Kelso , 1957年4月4日 - 1983年10月16日)はアメリカ合衆国生産・調教のサラブレッドで、5年連続年度代表馬受賞を始めとした、20世紀最高の栄誉を得た競走馬の一頭である。
目次 |
[編集] 出生
後の世に名高いケルソの出生は、決して輝かしいものではなかった。
1957年4月4日、パリ(ケンタッキー州)近郊のクレイボーンファームにて、父ユアホスト、母メイドオブフライトのもとに生まれた。ユアホストは首がねじれていたりと外見が悪かったものの、その走りで低評価を覆してきた馬であった。小さい馬格、痩せこけて貧相な線と、ケルソもまた父同様に外見で良い印象を持てる馬ではなかった。
また、ユアホストは瀕死の重症を負ったものの精神力で克服した強い心を持っていた。ケルソもこの気高さを倍にして受け継いだのか、非常に激しい気性の持ち主になってしまった。ケルソを所有していたデュポン夫人は、彼の気性難を抑えるためにデビュー前に去勢させている。
母メイドオブフライトの血統も父カウントフリート、母父マンノウォーと悪くなかったが、それを含めてもこの時点でのケルソの評判は非常に低かった。
[編集] 戦績
[編集] 若駒時代
その後、ケルソはデュポン夫人のボヘミアステーブルズに移され、ジョン・リー調教師に預けられる。
1959年9月4日、ジョン・ブロック騎乗のもと、アトランティックシティ競馬場でデビュー戦を走り、見事に勝利で飾った。初戦を華々しく飾ったケルソの評判は高まり、続くデビュー2戦目で2着、3戦目では1番人気に推されながら惜しくも2着に敗れる。体質的な弱さもあって、2歳時をこの3戦のみで終えざるを得なかった。
1690年、調教師であったジョン・リーが本業の獣医師に復帰したため、ケルソは新たな調教師を得るまで出走の機会を得られなかった。ケルソの新たな調教師はカール・ハンフォード(2006年殿堂入り)に決まり、以後ハンフォードの元で引退まで走り続けることとなる。
クラシックシリーズも過ぎた頃、ハンフォードがケルソを管理して最初に挑んだレースは1960年6月22日にモンマスパーク競馬場で行われた一般戦。1番人気に支持されたケルソは、10馬身近い大差を付けて圧勝した。
続く競走を再び快勝。初めて挑んだ重賞アーリントンクラシックステークスでは苦杯を舐めるが、続くチョイスステークスを勝ち、ここから怒涛の連勝劇を繰り広げる。ジェロームハンディキャップ、ディスカバリーハンディキャップ、ローレンスリアライゼーションステークス、ホーソンゴールドカップハンディキャップと、破竹の勢いで勝ち進む。レコードタイムも次々と塗り替えており、ローレンスリアライゼーションステークスにおいて記録した2.40.8というタイムは、マンノウォーの記録したダート12ハロンのレコードタイムとタイ記録であった。
年内最終戦となったアケダクト競馬場で行われたジョッキークラブゴールドカップにおいて、不良馬場となったダート16ハロンをレコードタイムで完勝、この年を9戦8勝で締めくくった。この年、ケルソはエクリプス賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬に輝いた。
[編集] 古馬時代
3歳時点で高評価を得た競走馬は、早期に引退して繁殖に上げられることが多い。しかし、せん馬で繁殖のできないケルソは翌年も走り続けた。
1961年、年明けから連勝を重ねたケルソは、ワシントンパークハンディキャップで敗れるまでに11連勝を記録した。また、この年にメトロポリタンハンディキャップ、サバーバンハンディキャップ、ブルックリンハンディキャップの3競走を制覇、ニューヨークハンディキャップ三冠を達成している。
ジョッキークラブゴールドカップには1964年までの5年間すべてに出走し、前人未到の5連覇という大記録を打ち立てている。また、1961~1963年にはウッドワードステークスの3連覇を成し遂げている。
一方で、ワシントンD.C.国際はケルソが苦杯を舐め続けた競走であった。1961年の初出走では2着、次の年の出走するが2着、翌年もまた2着と、3年連続で惜敗に終わっていた。1964年、4度目のワシントンD.C.国際出走時のメンバーは錚々たる顔ぶれであったが、2着Gun Bowに4馬身半の差をつけて念願の優勝を飾った。この時の走破時計2.23.8は、当時の芝12ハロン世界レコードという、大きな勲章つきの勝利であった。
エクリプス賞も独占し続けた。1964年まで5年連続の年度代表馬、4年連続の最優秀古牡馬に選ばれており、この連続受賞記録は未だ破られていない。
1966年ケルソ9歳、その年初戦の一般戦を4着に終えた後、右後足種子骨骨折を理由として競走生活を引退した。ハンフォードらは、この故障さえ無ければその年も活躍できると期待していたという。63戦39勝・2着12回、連対率81%。
[編集] 引退後
引退後、ケルソは障害飛越競技の競技馬となっている。
[編集] 評価
[編集] 主な勝鞍
- 1960年 - ホーソンゴールドカップハンディキャップ
- 1960-1964年 - ジョッキークラブゴールドカップ(5連覇)
- 1961年、1963年 - サバーバンハンディキャップ
- 1961-1963年 - ウッドワードステークス(3連覇)
- 1961年、1963年、1965年 - ホイットニーステークス
- 1964年 - ワシントンD.C.国際
- 1961年 - ニューヨークハンディキャップ三冠達成 (史上3頭目)
[編集] エクリプス賞
- 1960-1964年 - 年度代表馬(5年連続)
- 1960年 - 最優秀3歳牡馬
- 1961-1964年 - 最優秀古牡馬(4年連続)
[編集] 表彰
- 1967年 - U.S. Racing Hall of Hame(名誉の殿堂)に選定される。
- 1977年 - Aiken Thoroughbred Racing Hall of Fameに選定される。
- 1980年 - ベルモントパーク競馬場にケルソの名前を冠した競走「ケルソブリーダーズカップハンディキャップ(G2)」が設立される。
- 1999年 - 20世紀のアメリカ名馬100選において4位に選ばれる。
[編集] 血統表
ケルソの血統 (ハイペリオン系) | |||
父
Your Host 1961 栗毛 |
Alibhai | Hyperion | Gainsborough |
Selene | |||
Teresina | Tracery | ||
Blue Tit | |||
Boudoir | Mahmoud | Blenheim | |
Mah Mahal | |||
Kampala | Clarissimus | ||
La Soupe | |||
母
Maid Of Flight 1965 |
Count Fleet | Reigh Count | Sunreigh |
Contessina | |||
Quickly | Haste | ||
Stephanie | |||
Maidoduntreath | Man O' War | Fair Play | |
Mahubah | |||
Maid Victorian | Victorian | ||
Black Betty |
[編集] 関連項目
- タカマガハラ - 元船橋競馬所属の日本馬。ケルソも出走した1962年のワシントンD.C.国際に挑んでいる。
- リユウフオーレル - 中央競馬所属の日本馬。ケルソが制覇した1964年のワシントンD.C.国際に挑戦、8着に敗れている。
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