カウントフリート
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性別 | 牡 |
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毛色 | 黒鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1940年3月24日 |
死没 | 1973年12月3日 |
父 | レイカウント |
母 | クイックリー |
生産 | ジョン・ダニエル・ヘルツ |
生国 | アメリカ合衆国 |
馬主 | ジョン・ダニエル・ヘルツ |
調教師 | G.ドン・キャメロン |
競走成績 | 21戦16勝 |
獲得賞金 | 250,300ドル |
カウントフリート(Count Fleet)は、1940年代に活躍したアメリカ合衆国の競走馬。1943年に史上6頭目となる現行アメリカ三冠を達成した。20世紀のアメリカ名馬100選・第5位(ブラッドホース誌)。
目次 |
[編集] 出生
馬体には見るべきものはなく、気性も悪くてとても扱いづらい馬であったと伝えられているが、生産者のジョン・ダニエル・ヘルツはこの馬をとても気に入っていた。馬名は父レイカウントと母クイックリー(急いでの意)に因みカウントフリート(素早い勘定)と名付けられた。
[編集] 戦績
2歳時は15戦に出走し10勝。レースぶりが安定するこの年の後半までは負けることも多く、フューチュリティステークスでは生涯唯一の3着に敗れているが、このフューチュリティステークスが生涯最後の敗戦となる。続くシャンペンステークス、ピムリコフューチュリティを快勝し、2歳最終戦ウォルデンステークスに至っては、スタートから後続を引き離すと30馬身差での圧衝撃を見せている。この年は2歳フリーハンデで過去最高となる132ポンド、全米2歳チャンピオンを獲得した。
3歳になると三冠戦線に挑むが、カウントフリートに挑もうという馬は少なく常に小頭数で行われた。ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ウィザーズステークス共に圧勝し、ベルモントステークスでは2頭を相手に、後のセクレタリアトに破られるまでベルモントステークス史上最大着差であった25馬身差で圧勝した。この後は現行三冠、旧三冠の同時制覇を目指し、旧三冠の最終戦、ローレンスレアリゼーションに出走するはずだったがベルモントステークスのレース中に故障しており、五冠制覇の可能性は絶たれそのまま引退している。
[編集] 引退後
引退後は種牡馬としてもまずまずの成績を収めた。1951年には米種牡馬チャンピオンになり、1963年にはチャンピオンブルードメアサイアーになった。1961年には米競馬の殿堂入り、1966年に種牡馬を引退した後も1973年まで生きた。
[編集] 競走成績
1942年(15戦10勝)米最優秀2歳牡馬
- シャンペンステークス、ピムリコフューチュリティ
1943年(6戦6勝)米年度代表馬、最優秀3歳牡馬
- アメリカ三冠(ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークス)、ウィザーズステークス、ウッドメモリアルステークス
[編集] 主な産駒
- カウントターフ(ケンタッキーダービー)
- カウンターポイント(ベルモントステークス)
- ワンカウント(ベルモントステークス、トラヴァーズステークス)
- キスミーケイト
カウントフリートの血統 (サンドリッジ系/St.Frusquin4×4=12.50%(父内)) | |||
父
Reigh Count 1925 栗毛 |
Sunreigh 1919 栗毛 |
Sundridge | Amphion |
Sierra | |||
Sweet Briar | St.Frusquin | ||
Presentation | |||
Contessina 1909 黒鹿毛 |
Count Schomberg | Aughrim | |
Clonavarn | |||
Pitti | St.Frusquin | ||
Florence | |||
母
Quickly 1930 青毛 |
Haste 1923 鹿毛 |
Maintenant | Maintenon |
Martha Gorman | |||
Miss Malaprop | Meddler | ||
Correction | |||
Stephanie 1925 芦毛 |
Stefan the Great | The Tetrarch | |
Perfect Peach | |||
Malachite | Rock Sand | ||
Miss Hanover F-No.6-a |
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