グスタフ・ブルナー
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グスタフ・ブルナー(Gustav Brunner, 1950年9月12日 - )は、オーストリア・グラーツ出身のカーデザイナー、エンジニアである。これまでに、主にF1のスクーデリア・フェラーリ、ミナルディ、トヨタで活躍した。
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[編集] 経歴
[編集] 1980年代前半
1983年にATSチームのデザイナーとしてF1で初めて仕事をし、その後2年間にわたって同チームの車体設計に携わり、1983年のATS D6、1984年のATS D7シャシーをデザインした。同チームは1984年をもってF1から撤退したが、チーム代表のハンス・ギュンター・シュミットとの間で反りが合わなくなったため、ブルナーはチームから去り、翌1985年はRAMレーシングに移り、RAM03シャシーをデザインした。
小規模なチームを渡り歩いたため、大きな結果を残すことはできなかったが、少ない予算のチームで良いシャシーを設計する手腕は他チームの関係者からも高い評価を得ていった。特に最初の作品であるATS D6では、小規模チームながらカーボンモノコックをいち早く採用し、それを実現するために、よりコストを抑えることができるメス型成型のモノコックを発案し、製造に用いた。当時のトップチームが用いたモノコックは全てオス型成型によるものであったが、後にこのブルナーの手法は広まり、以後はレースカーのカーボンモノコック製造においてメス型成型が主流となっていった。
[編集] 1980年代後半
1985年限りでRAMが撤退して後、アロウズ、フェラーリ、リアルで設計に携わり、1989年にザクスピードにおいてテクニカルディレクター(技術監督)の地位に就任した。
この年のザクスピードのシャシーZK891はブルナーの作品の中では成功作とは言いがたく、年間で、予選通過ですらベルント・シュナイダーによるわずか2回にとどまり、このクルマで全戦予備予選落ちという不名誉きわまる結果を残した鈴木亜久里は、後々までブルナーに怨嗟の言葉を吐き続けることとなる。
この年限りでザクスピードがF1から撤退したため、1989年の末にはマーチから衣替えされたレイトンハウスに移籍した。
[編集] 1990年代初頭
エイドリアン・ニューウェイによってデザインされたレイトンハウスの1990年のシャシーCG901はドライバビリティに問題を抱えていたため、ニューウェイの離脱後、その再設計を求められたブルナーは、クリス・マーフィーとともにそれに取り組んだ。完成した改良型CG901Bは第7戦フランスGPから投入され、チームが取ったタイヤ無交換作戦も功を奏し、このレースにおいてドライバーのイワン・カペリとマウリシオ・グージェルミンが一時的に1位と2位で走行し、結果的にもカペリが2位表彰台を得たことで、大きな注目を浴びた。
レイトンハウス(1992年は名称をマーチに戻す)が1992年限りで撤退したため、ブルナーはミナルディに移籍し、1993年のM193シャシーをデザインした。特筆すべき結果を残したわけはなかったが、同チームのテクニカルディレクターでデザインチーフのアルド・コスタとのコンビで設計したこのシャシーは、素性良く仕上がった好作品となった。しかし、ブルナーはミナルディにも長くは留まらず、今度はフェラーリの技術開発部門に移籍した。
[編集] 再びフェラーリへ
ジョン・バーナードの設計になる1994年型フェラーリ、412T1はサスペンションの設計など少なくない問題点を抱えていたため、途中加入のブルナーはそれらの改良を任された。改良型のシャシーは412T1Bとして第7戦フランスGPで投入され、ゲルハルト・ベルガーの運転により、第9戦ドイツGPにおいてフェラーリにとっても久々の優勝を遂げた。
しかし、フェラーリはあくまでバーナードをデザインの中心に据えたため、ブルナーの役目はこの1994年の412T1、1996年のフェラーリ310といった、バーナードの設計の失敗の尻拭いをさせられる、いわば予備要員に近いものであった。設計の主導権を任されることはなかったが、ブルナーによるこれらの改良型は確実に初期型を上回る成果を出したため、ブルナーは再設計の手腕をますます高く評価されることとなる。
1996年にミハエル・シューマッハが加入して以降、フェラーリのデザイン部門改革が急進し出したため、1997年をもってチームから去った。
[編集] 再びミナルディへ
1998年にミナルディに復帰し、1999年にテクニカルディレクターに就任した。復帰後の初作品となったのは1999年のM01で、そこそこの戦闘力を発揮し、第14戦ヨーロッパGPでは、レースが大荒れとなったことにも助けられ、ミナルディにとって久々となる入賞を記録した。この入賞によりミナルディは、「潤沢な予算規模」を売りのひとつに鳴り物入りでこの年から参戦を開始した新チーム、ブリティッシュ・アメリカン・レーシングをシリーズランキングで下して最下位に追い落とし、同チームおよび同チーム代表のクレイグ・ポロックに嫌悪感を抱いていた関係者の溜飲を下げるとともに、「最も予算規模が小さいチーム」でクルマを設計したブルナーにも注目が集まった。
続く2000年のM02で、低予算のミナルディながら、トップチームですら採用していなかったチタン鋳造のギアボックスを採用し、それにリアサスペンションのトーションバーを組み込むという意欲的な設計を盛り込んだ。この設計は構想倒れに終わることなく、入賞(6位以内完走)こそなかったが、数度のシングルフィニッシュ(9位以内完走)を記録するなど、M02は好走を見せた。
この頃になると、低予算チームでも新規性に富んだアイデアを盛り込みつつ素性も良いシャシーを作る手腕が改めて評価されて注目を集め、グランプリ期間中にエイドリアン・ニューウェイなど、トップチームのデザイナーたちがミナルディのピット前で最下位であるミナルディのクルマをまじまじと観察するという様が見られるようになった。
2001年、この年のPS01ではプッシュロッドが主流の時代の流れに逆らい、サスペンションにプルロッドを採用した。このシャシーも関係者からの評価は悪くなかったが、ブルナーがいくらこうした工夫をこらしたところで資金力などチーム間の根本的な力の差は埋めようもなく、搭載されたエンジンがすでに3年落ちの「骨董品」コスワースエンジンという状況では、チームは低迷するほかなかった。
このPS01については、この年デビューのフェルナンド・アロンソがこの不利なクルマを駆ってしばしば好走を見せ、後にアロンソがワールドチャンピオンとなったため、今日ではアロンソがF1において最初に駆ったクルマとして知られている。
[編集] 突然の移籍
ミナルディ在籍時、ブルナーはその手腕が評価されたことでトップチームから誘いを受けることもしばしばあったが、全体を見回しやすい小規模なチームでの仕事が好ましいとして、それらの申し出を断り続けていた。
そうした経緯から、ブルナーはミナルディに当面は留まり続けるものと思われていたため、2001年の5月にトヨタチームへの移籍が発表された際、その報は驚きをもって迎えられ、当時ミナルディの新オーナーとなったポール・ストッダートは、金の力でブルナーを釣り上げていったトヨタに対して怒りを隠さなかった。
[編集] トヨタ
トヨタにチーフデザイナーとして参入し、同チームのF1参戦初年度2002年のTF102のデザインがトヨタでの初仕事となった。
TF102はトヨタ入りして間もなくの急ごしらえのものであったため、設計のための充分な時間がなく、このクルマのデザインは多くをミナルディ時代のそれから流用した、とされる。そのためか、離脱以前に基本設計を終えていた(とストッダートは主張した)ミナルディの2002年型シャシー、PS02とよく似た外観のクルマとなった。実際にトヨタで設計された初作品と言えるのはTF103であるといえる。
潤沢な資金を持つチームに移籍したことで活躍を期待されたが、この時期の作品が注目を集めることはほとんどなかった。
2003年末にルノーから移籍してきたマイク・ガスコインがテクニカルディレクターに就任して以来、ガスコインの構想から不要と判断されたブルナーは不遇をかこつこととなり、2005年12月に、トヨタチームからの離脱が公表された。
[編集] 外部リンク
[編集] 参考
- UNCHIKU Vol.27 - ATSの項を参照