イザベラ・オブ・フランス
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イザベラ・オブ・フランス(Isabella of France, 1295年頃 - 1358年8月22日)は、イングランド王エドワード2世の王妃。父はフランス王フィリップ4世、母はフィリップ4世の王妃でナバラ女王のジャンヌ・ド・ナヴァール。長兄はフランス王ルイ10世、次兄はフィリップ5世、三兄はシャルル4世。イングランド王エドワード1世の2度目の王妃マーガレット・オブ・フランスは叔母。
4歳でエドワード王太子(後のエドワード2世)と婚約した。その美しさから、広くヨーロッパの各宮廷に「佳人イザベラ」として知られていた。
1308年1月28日、ブローニュ=シュル=メールで成婚した。フランス王フィリップ4世(新婦の父)、ナバラ王ルイス1世(新婦の兄ルイ王太子)、カスティーリャ王フェルナンド4世の3組の国王夫妻が列席し、祝典と行事は2週間にも及んだという。
新婚早々、夫の寵臣ガヴスタンと彼女は対立し、王は寵臣と2人で彼女に数々の嫌がらせを行うようになった。王妃が反ガヴスタンの旗印になっていくのは無理からぬことであった。何度も宮廷からの追放や左遷を画策するが、王がそのたび奇策を使って呼び戻すことが続いた。
1314年6月24日、バノックバーンの戦いでイングランド軍がスコットランド軍に大敗する。この戦いに参加・不参加の貴族たちの反目が激化し、国王派、反国王派の争いも絡んで、国内が不穏な空気に包まれた。王妃には依然としてイザベラ支持派の貴族が出入りするため、国王から王妃はロンドン塔(当時は王宮として使われていた)へ軟禁される。
そんな中、ロンドン塔内の獄舎に入れられたロジャー・ド・モーティマーと出会う。ウェールズで国王派の豪族ウィンチェスター伯に抵抗して敗れ、断頭刑の宣告を受けていた。モーティマーに惹かれたイザベラは、王に懇願して終身刑に減刑させ、なおかつ脱獄させた。
1325年、フランス王シャルル4世に臣従の礼をとるため、王太子エドワード(後のエドワード3世)と渡仏した。フランスで亡命していたロジャーと再会し、王権の転覆策を練るが、兄シャルル4世はこの陰謀に荷担せず、逆に彼女らに国外退去命令を出した。イザベラらはフランドルのエノー伯ヴィレムを頼り、ヴィレムの娘フィリッパと王太子エドワードの結婚を条件に、莫大な軍事費を持参金代わりに受け取った。
1326年9月24日、東部サフォークへ上陸した。各都市は直ちにイザベラの側に立ち、国王と国王派の貴族は抵抗むなしく、逮捕、処刑の憂き目にあった。翌年1月、議会はエドワード2世の廃位を議決し、王太子エドワードを後継に選んだ。王太子エドワードはまだ15歳であったが、これから母が自分を傀儡に政権を握ろうとしていること、それに対する反感の盛り上がりを賢く察知し、「父から直接譲位がないかぎり即位しない」と指名を拒否。父王からの譲位書を受け取って、初めて即位に同意した。
政治は、新王エドワード3世からマーチ伯位を与えられたロジャーとイザベラが動かした。この2人がフランスとの講和や、スコットランド王太子デイヴィッド(後のデイヴィッド2世と王女ジョーンの結婚による同盟締結と、数々の屈辱的外交をおこない、国民からも強い不満が噴き出すようになった。
1330年、エドワード3世は、密かに計画されていたイザベラとマーチ伯の打倒計画に同意を与えた。同年11月、2人は逮捕された。マーチ伯は、貴族に対する通例の断頭刑ではなく、重罪人同様の絞首刑に処され、市中引き廻しの上、最後は遺体を切り刻まれた。王大后イザベラは、一切の権限の剥奪と、ライジング城への幽閉が決められた。
イザベラがカペー家本流の最後の生き残りであり、フランスの王位継承権を主張できることから、傍系ヴァロワ家出身のフィリップ6世に異議を唱え、自らのフランス王位継承を求めていたエドワード3世にしてみれば、母を罪人扱いできなかったのである。
28年に及ぶ幽閉の間、マーチ伯の処刑を思い出して、時折精神異常に陥ったという。1358年に死去。遺言で、愛人ロジャーの眠るグレイ・フライアーズ僧院へ埋葬された。