アンリ・ダルトワ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シャンボール伯アンリ・ダルトワ(アンリ・シャルル・フェルディナン・マリー・デュードンネ・ダルトワ; Henri Charles Ferdinand Marie Dieudonné d’Artois, Comte de Chambord, 1820年9月29日 - 1883年8月24日)は、フランス王シャルル10世の孫にあたるフランス・ブルボン家最後の王位継承候補だった人物である。レジティミスト(ブルボン王朝支持者)たちからはアンリ5世と呼ばれたが、王政復古を実現することなく没した。現在では、単にシャンボール伯と呼ばれることも多い。
目次 |
[編集] 生い立ち
アンリは、シャルル10世の次男ベリー公シャルル・フェルディナンと両シチリア王家のマリー・カロリーヌの間に生まれた。父にあたる王太子ベリー公は、アンリが生まれる7か月前に暗殺され、直系の男子が途絶えると危惧された矢先に誕生したため、アンリは「奇跡の子」ともてはやされた。彼は誕生から祖父の譲位まではボルドー公の称号を持ち、亡命中に、シャンボール城にちなんだ儀礼的称号「シャンボール伯」を名乗った。
[編集] 七月革命と祖父からの譲位
1830年8月2日にシャルル10世はアンリのために王位を譲った。サリカ法の上では次の王位はシャルル10世の長男ルイ・アントワーヌ・ド・フランス(「ルイ19世」)が継ぐべきであったのだが、彼は父シャルル同様不人気なうえに、後継者がいなかったことで、すぐさま甥であるアンリの譲位に賛同する連署を行わなければならなかった。その時以降、アンリの支持者たちは彼を「アンリ5世」と呼んだ。しかし、議会は王位継承者として遠縁にあたるオルレアン家のルイ・フィリップを指名した。こうして、アンリ5世の即位は立ち消えとなったのである。
ブルボン家は1830年8月16日に亡命することとなった。1832年にはアンリの母マリー・カロリーヌがフランス西部で反乱を扇動しようとしたが、失敗に終わった。
[編集] 変動するフランス政体と王政復古運動
1836年に祖父シャルルが没し、1844年に伯父ルイが没すると、アンリはブルボン家の長となった。彼の戴冠を目指すレジティミストたちは、七月王政期、第二共和政期、第二帝政期を通じて、常に政権の対抗軸であり続けた。
1871年に、普仏戦争敗戦を受けて第二帝政が崩壊した。オットー・フォン・ビスマルクは、フランクフルト条約の交渉の下地づくりとして、選挙を行わせた。この時の選挙では王党派が議会の多数を占めたが、レジティミストとオルレアニスト(オルレアン家支持者)に二分されていた。しかしながら、この議会での王政復古を実現するために両派で交渉が行われ、結果、シャンボール伯アンリが、オルレアン家のパリ伯ルイ=フィリップ・ドルレアンよりも継承順位が上位であるという合意がなされた。ただし、この時点で、オルレアニストと一部のレジティミストの間では、子のいないアンリの後継者問題(最も近い親類はスペインのモンティソン伯フアン)も認識されてはいた。
[編集] 王政復古の失敗
ともあれ、1873年にはシャンボール伯のフランス王即位は必至の情勢となっており、伯は揚々とパリ入市を果たした。彼はマクマオン大統領に先導されて議会に入り、歓呼で迎えられる形で王として認められることを思い描いていたが、彼自身の頑迷さがそれらを水泡に帰させた。彼は王になるにあたり、白旗(フランス王国旗)を棄て、三色旗を受け入れることを求められたが、断固として拒否した。彼にとって、それを受け入れることは、フランス革命の精神を継承することに繋がったからである。かくして、王政復古の最大の好機は去った。
オルレアニストと一部の失望したレジティミストは、より駆け引きに長けたパリ伯を王位継承候補とするために、シャンボール伯の没後に期待をかけることにし、ひとまずは第三共和政に統治を委任することを決定した。しかし、実際に1883年にシャンボール伯が没すると、世論は共和政容認が大勢となり、選挙でも共和派が多数を占めた。この結果、王政復古の望みは潰え、「共和政」の名が公的に現れるようになった。
[編集] 晩年
シャンボール伯の死は既に触れたように1883年のことであったが、彼はその時を亡命先のフロースドルフ(Frohsdorf, オーストリア)で迎えた。彼には子供がいなかったため、カペー朝の嫡流は、スペイン・ブルボン系のモンティソン伯フアンが引き継ぎ、フランス国王ジャン3世を僭称することとなった。しかし、オルレアニスト側でもパリ伯をフランス国王フィリップ7世と僭称したので、このことが両者の対立をあおることとなった。
シャンボール伯の遺体は、ノヴァ・ゴリツァ(オーストリア・ハンガリー帝国領下、現スロベニア領)に葬られた。
[編集] 参考文献
- 高村忠成著【2003】『近代フランス政治史』 北樹出版
- Jean-Francois Chiappe,Le Comte de Chambord,1999,Perrin