N線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
N線(N ray、エヌ線)はフランスの科学者ルネ・ブロンロにより報告された現象であるが、後に、それは錯誤によるものであることが明らかになった。
1903年、ナンシー大学に籍を置く優秀な物理学者であったブロンロは、スパーク・ギャップ中で電気火花の明るさが変化したことに気がついた。彼はこれを新しい放射線によるものだと考え、この放射線をナンシー大学にあやかり「N線」と名付けた。ブロンロをはじめ、オーギュスタン・シャルパンティエ、アルセーヌ・ダルソンバールなどが、人体も含めた多くの物質から放出されるこの放射線の存在を主張した。さらに、物理学者であるギュスターヴ・ル・ボンやP.オードール、降霊術者であるカール・ハンターらが、自分たちこそN線の発見者であると申し立てたため、フランス科学アカデミーが優先権を決定する事態となった。
この「発見」は国際的に注目されることとなり、多くの物理学者がこの効果の再現実験を行った。しかし、著名な物理学者であるケルビンやクルックス、オットー・ルンマー、ハインリヒ・ルーベンスらは、追試に成功しなかった。
アメリカの物理学者、ロバート・ウッドも自身の追試に失敗した後、詳細な調査のためにフランスに赴くよう説得を受けた。そして、1904年9月29日版の「ネイチャー」誌に発表されたロバート・ウッドの徹底的な調査結果により、N線は期待通りのデータを求めていた科学者による、純粋に主観的な現象であることが明らかになった。
この出来事は科学者の間で、実験者バイアスによって間違いを犯す危険性についての訓話として用いられている。しかしより正確に言えば、愛国心がN線の発見の原因であったといえる。1870年、フランスはドイツとの普仏戦争に敗れた。その後、ドイツの物理学者レントゲンによってX線が発見されるに至り、新発見を求めるレースが始まってしまったのである。
N線は病的科学の一例としてアーヴィング・ラングミュアに引用されている。
N線の発見に対するブロンロの信念に敬意を表し、フランスの田舎町ナンシーには、彼の名前にちなんだ通りがいまでも存在する。