Ar-2 (航空機)
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Ar-2(アルハーンゲリスキイ2、アルハンゲリスキー2;ロシア語:Ар-2アール・ドヴァー)は、ソ連のアルハーンゲリスキイ設計局の開発した双発中型急降下爆撃機(Пикирующий бомбардировщикピキールユシイ・バムバルヂローフシク)。初飛行は1940年で、主に第二次世界大戦前半、ドイツ軍に対する戦闘に参加した。高速爆撃機(Скоростной бомбардировщикスカラスノーイ・バムバルヂローフシク) SB最後の量産派生型である。
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[編集] 概要
ツポレフ設計局においてSBを開発したアレクサーンドル・アレクサーンドロヴィチ・アルハーンゲリスキイ(Александр Александрович Архангельский)は、その派生型のひとつとしてSB-RK(СБ-РКエースベー・エールカー)と呼ばれる機体を開発した。この機体は、500~600 km/h級の爆撃機を求める軍に対する回答として設計された。この厳しい要求を満たすため、この改良型爆撃機には赤軍航空隊の最新鋭戦闘機であったYak-1やLaGG-3)と同じクリーモフ設計局製の液冷式 V型12気筒エンジンM-105Rが搭載されることとなった。1100馬力の出力を発揮するこのエンジンのお陰で、SB-RKはこの他に、1350馬力のM-106も試験されたが、このエンジンは未完成であったため採用されなかった。その他、従来のM-103やM-104などでも試験が行われた。
戦闘試験は1940年7月15日より開始され、急降下爆撃用に設計されたVISh-22Yeプロペラーを装備するM-105Rエンジンを搭載した量産型のSB 5機が、急降下爆撃用のPB-3爆弾架を装備して試験に臨んだ。同様の試験は、VISh-23プロペラーを装備したDB-3でも実施された。
SB-RKの2番目の試作機では、ドイツより購入したJu 88双発急降下爆撃機の高性能ぶりを参考に、この新しい高速爆撃機をそのような急降下爆撃機として完成させることが決定された。その後、SB-RKの各種システムはJu 88のものを参考して製作されていった。SB-RKはBB-2PB(Su-2の試作名称)やJu 88A-4とともに急降下爆撃の試験に入り、優れた成績を収めた。
途中で用途による呼称から設計者の名前を反映させた呼称へ軍の命名方針が変更されたこともあり、1940年12月9日からはAr-2と呼ばれるようになった。
完成されたAr-2は優れた急降下爆撃機で、同時期に開発されていたまったく新しい設計の機体であるPe-2と比べてもほとんどすべての点でより優れていた。赤軍海軍航空隊の幹部や専門家たちの意見も、主力急降下爆撃機はAr-2にすべきで、Pe-2はその護衛のための長距離戦闘機として完成すべきであるというものであった。しかしながら、共産党中央にそうした声は「聞こえなかった」。結局、主力急降下爆撃機にはPe-2が選定され、Ar-2は少数が生産されたに留まった。
Ar-2の生産はある「重大な過ち」により中止となったのであるが、指摘されたAr-2の「欠点」というのは、Pe-2と比べて飛行速度が遅いということであった。だが、この欠点は戦闘指揮および護衛の戦闘機との協同行動や急降下爆撃の戦術の改善により完全に覆うことができるものであった。実際、ドイツ空軍ではこうした戦術面での努力により爆撃機の速度不足の問題は解決されたのである。Ar-2はすばらしい離着陸性能をもっており、初心者にとってはPe-2よりはるかに扱いやすい機体であった。Pe-2の離着陸性能の悪さは有名で、降着装置の破壊は頻繁に発生していた。Pe-2における故障のうち30%は、着陸時に発生したものであった。これは、実用上支障を来す程度のものであった。設計者であるヴラヂーミル・ミハーイロヴィチ・ペトリャコーフ(Владимир Михайлович Петляков)も、搭乗していたPe-2の事故で頓死している。結局、より優れた航空機であったAr-2は冷遇され、Pe-2やまずい戦術のもと次々と戦場へ送られていった。ソ連軍の急降下爆撃機の損傷率は極めて高いもので、これはより重装甲のIl-2などでも基本的に変わらなかった。
1941年6月1日の時点で赤軍航空隊は164機のAr-2を保有していた。これらの機体のうち整備中の3機を含む147機が部隊に配備されており、残りの機体は第22工場にあった。6月22日にはドイツ軍の侵攻により独ソ戦(大祖国戦争)が始められたが、これらの機体のうち多くがウクライナにおける戦闘初期の内に十分に力を発揮できぬまま消耗してしまった。I-153やI-16のような自軍の戦闘機が敵に対してあまりに無力であったこともあり、Ar-2は十分な護衛を受けることができなったのである。損失は、開戦後最初の一ヶ月だけで実に95機に及んだ。また、若干の機体がキエフなどでドイツ軍によって無償のまま捕獲されてた。生き残った機体は1943年まで使用されたとされている。
Ar-2では、ほかにAM-37エンジンの搭載試験も行われていた。これによりAr-2は3発のFAB-1000爆弾を搭載できるようになるはずであったが、不運なことに戦況の悪化によりこのエンジンは量産体制から外されてしまった。Ar-2の後継となる最初のTu-2が新しいASh-82エンジンを搭載して前線へ投入されたのはようやく1942年の9月になってからであり、ASh-82FNを装備する本格的な量産型Tu-2が前線へ姿を現すのは、戦局も定まってきた1944年の9月になってからであった。結局、ソ連軍は多くの欠陥を抱えたPe-2やSu-2、Il-2で祖国存続の危機を乗り越えねばならなかったのである。
[編集] スペック
- 初飛行:1940年
- 翼幅:18.00 m
- 全長:12.50 m
- 全高:3.56 m
- 翼面積:48.20 ㎡
- 空虚重量:4516 kg
- 通常離陸重量:6660 kg
- 最大離陸重量:8150 kg
- 発動機:クリーモフ製 M-105R(М-105Р) 液冷エンジン ×2
- 出力:1100 馬力
- 最高速度(地表高度):443 km/h
- 最高速度:512 km/h
- 巡航速度:475 km/h
- 実用航続距離:1500 km
- 上昇力:765 m/min
- 実用飛行上限高度:10500 m
- 乗員:3 名
- 武装:
- 7.62 mm機銃ShKAS(ШКАС) ×4
- 機内爆弾搭載量:1600 kgまで:100 kg爆弾 ×6、250 kg爆弾 ×2、500 kg爆弾 ×1、VAP-500(ВАП-500)、ZAP-500(ЗАП-500)
- 外部爆弾搭載量:1500 kgまで
[編集] 関連項目
姉妹機
- SB
- SB-2
- B-71
ソ連軍の爆撃機
- DB-3
- Su-2
- Il-2
- Pe-2
- Yak-4
- Tu-2
- Er-2
- ボストン
- B-25
同クラス・同種の爆撃機
[編集] 外部リンク
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