203高地
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203高地は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある一丘陵。旧市街地から北西2kmほどのところにある。海抜203メートルであることからこの名が付けられた。
日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となったところで、第3軍の司令官として出征した乃木希典の漢詩には音を写して爾霊山(にれいさん)と詠まれた。
現在も中国海軍の軍事施設に含まれており外国人の立ち入りは禁じられてきたが、1990年頃から観光客に開放されるようになった。
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[編集] 日露戦争
日露戦争において、ロシアの旅順艦隊を覆滅するのに失敗した日本海軍の要請により、旅順攻略は必要不可欠なものとなり、日本陸軍が旅順要塞を攻撃した。この高地は当初あまり重要視されなかったが、旅順郊外から旅順港停泊中のロシア艦隊に砲撃しようとする際、弾着を観測する兵を配置するのに最適な場所であると気づいた日本海軍連合艦隊の参謀であった秋山真之少佐(旅順攻囲戦当時)がこの高地を攻略することを進言したことから、この高地は日露戦争の帰趨を決する旅順攻囲戦において重要な鍵を握る場所になった。というのは、203高地からは旅順港が良く見通せたのである。そのため、日本軍とロシア軍の間で争奪戦が行われ、多くの死者を出した。11月にこの戦場に来た日本陸軍第7師団(旭川)はわずか5日間で1万5千人ほどの兵力が1千人にまで減ったことで、その攻撃の凄まじさがうかがえる。防戦側に立ったロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもがこの高地にて命を落とした。1904年12月5日に日本軍が占領し、陸上からの砲撃でロシア東洋艦隊を壊滅させた。これ以降、旅順要塞側の抵抗は衰えていき、1905年(明治38年)1月1日、ロシア側の司令官ステッセルは降伏し、旅順を開城することになる。
[編集] 二百三高地髷
二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)は、日露戦争後、日本で流行した髪形で、前髪を張り出すとともに頭頂部に束ねた髪を高くまとめていた。当時普及し始めていた洋装に合う髪型として生み出された。
[編集] 映画「二百三高地」
203高地の攻防戦を描いた日本の映画。詳細は、『二百三高地』を参照のこと。
[編集] 外部リンク
- 公文書に見る日露戦争(国立公文書館アジア歴史資料センター)