黄金山
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黄金山(おうごんざん)は、広島県広島市南区の南東部に位置する標高221.7mの山。東は坂町・呉方面、北は安佐南区方面、西は西区方面、南は広島湾と太田川デルタを一望することが出来る。昼は憩いの場として、夜は広島市でも有数の夜景スポットとして親しまれている。原爆が投下されたとき、黄金山の影に入ったため残った土蔵が周辺に残っており、当時の町並みの面影がのこる。また、桜並木が有名で、毎年桜の開花時期には登山道沿いに植えられた桜で山が桜色に染まり、花見の名所である。
黄金山の名の由来には諸説ある。「瀬戸内特有の夕陽に黄金色に輝いて見えたから」「航海の安全のための狼煙が天を焦がすほどだったから」「麦畑の穂が黄金色に輝いていた」など諸説あるが、地元では「白い実をつける南天の根元を掘れば小判(黄金)が出る」という伝説が伝わっている。
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[編集] 歴史
広島市中心部(太田川下流のデルタ部)の大部分はかつては海であった。黄金山もその当時は広島湾に浮かぶ島のひとつで、仁保島と呼ばれていた。仁保島は広島湾に浮かぶ要害の1つとして重要拠点になっており、現在の山頂には仁保城(仁保島城とも)が築かれていた。仁保城は連郭式の山城で、本丸・二の丸・三の丸からなっていた。城の起源は不明であるが、室町時代後期には既に存在していたといわれる。現在のテレビ塔が建てられている辺りと伝えられているが、遺構が消滅しており詳細は不明である。
戦国時代、広島湾では安芸国守護であった武田氏と周防の大内氏の勢力が激しく争っており、仁保城は武田氏の警固衆であった白井氏の支城の1つであったとされる。白井氏は安芸国に下向してきた関頭御家人千葉氏の一族で、明応4年(1459年)に武田氏からその警固を命じられている。当初白井氏は安芸国の国衙があった現在の府中町に出張城を築き、そこを本拠地としていたようであるが、戦略的な都合から次第に広島湾頭に近い仁保城を本拠地とするようになったといわれる。
武田氏が滅んだ後、弘治元年(1555年)に周防の陶晴賢と決別した毛利氏が安芸国における陶氏側の勢力を駆逐しはじめた。仁保城の白井氏と矢野城の野間氏は反毛利の姿勢をとっていたため、毛利氏の標的とされた。毛利氏の戦略は、広島湾頭の警固衆を駆逐することで、その後の陶氏との戦いを優位に展開していくものであった。来るべき陶氏との戦いを、海上戦と位置づけていたからである。毛利方に包囲され落城した後は、この城には白井氏と同じく武田氏の警固衆であった八木の香川氏が城番として詰め、厳島合戦で陶方の侵攻があった際には香川光景が撃退したと伝えられている。
[編集] 交通
- 広電バス4号線で、「広島駅前」バス停もしくは「県庁前」バス停より、「東本浦」バス停もしくは「仁保一丁目」バス停で下車「登山道入り口」の交差点より登山道を登る。「仁保車庫行(仁保南経由)」の場合、旭が丘団地入り口バス停下車、登山道を登る
- 国道2号線本浦交番前の交差点より登山道入り口へ(南へ)入り、登山道を登る
徒歩の場合、登山道入り口から50分ほど掛かる。なお、黄金山緑地内は23時 - 5時の間は立ち入り禁止である。
[編集] 施設
山頂には展望台・トイレ・レストハウス(黄金山ハウス)、本丸・二の丸の石垣が残る。また、周辺には仁保島城の出丸跡、観音寺、案内地蔵、爾保姫神社、大銀杏などがある。