秋月種実
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秋月 種実(あきづき たねざね、天文17年(1548年) - 慶長元年9月26日(1596年11月16日))は、筑前国の国人。秋月文種の次男。子に秋月種長・秋月種至・高橋元種。
1557年、父・秋月文種は大友宗麟の猛攻を受けて自害したが、種実は家臣に連れられて落城寸前に脱出し、毛利氏を頼って落ち延びたとされる。
1559年(永禄2年)正月、秋月氏の旧臣深江美濃守は毛利氏の支援を得て、秋月種実を居城に迎えると、古処山城を占拠していた大友軍を破り、秋月氏の旧領をほぼ回復した。種実の弟種冬は高橋鑑種の養子として豊前小倉城に入り、種信は長野氏を継いで豊前国馬岳城主となり、秋月元種は香春岳城主となり、それぞれ大友氏に対抗した。秋月氏の名が史上もっともあらわれるのは、この種実の代からである。
1567年、高橋鑑種が大友氏に反旗を翻すと秋月種実も同調し、休松にて大友軍を叩きのめした。この戦いで戸次鑑連の一族は大打撃を受け、鑑連は無事だったものの、その弟らは討死した。
1568年立花鑑載が大友氏に反旗を翻すと、秋月種実はまたもやそれに同調し、大友氏に抵抗した。しかし大勢力となった大友氏の力は強く、1569年に立花山城が落城すると、種実も大友氏に降伏することを余儀なくされた。
1578年に耳川の戦いによる大敗で大友氏が衰退すると、大友氏に再度、反抗して龍造寺氏、島津氏と手を結んだ。そして島津氏と大友氏の争いの中で種実は大友領を次々に浸食してゆき、最終的には筑前、豊前、筑後北部に36万石にも及ぶ広大な所領を築き上げ、秋月氏の最盛期を築いたのである。
豊臣秀吉の九州征伐では、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言した忠臣・恵利暢堯を追放して切腹に追い込んだ上、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦ったが敗北した。そして籠城中に秀吉得意の一夜城作戦により戦意を喪失し、降伏することとなった。
この時、種実は剃髪し、『楢柴肩衝』と『国俊の刀』を秀吉に献上。娘を人質に出したことにより秋月氏は存続を許されたのである。