馬超
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馬超(ばちょう、176年 - 222年)は、中国三国時代の蜀漢の武将。字は孟起(もうき)。諡は威侯。扶風郡茂陵県の人。 後漢の名将馬援の子孫。祖父は馬平(子碩)。父は馬騰(寿成)。子は馬秋・馬承。娘は安平王劉理の妻となっている。弟に馬休、馬鉄。従兄弟に馬岱がいる。馬騰は羌族との混血であり、この血を引いている馬超も漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。 『三国演義(三国志通俗演義)』では、その雄姿から「錦馬超(きんばちょう)」として称えられ、五虎大将軍の一人に選ばれている。
[編集] 経歴
若い頃から勇名をうたわれており、202年、司隷校尉 鍾繇の要請を受け、部下の龐徳とともに、一万の兵を率いて平康の郭援と高幹を討伐し、大いに郭援を撃破してその首を斬った。その際、足に矢を受け負傷したが、その足を袋に包んで尚戦い続けたという。詔勅によって徐州刺史となり、後に諌議大夫に任命された。馬騰が入朝すると、偏将軍・都亭侯に任命され、父親の軍勢を引き継いだ。
211年、馬超は時の朝廷の権力者曹操と敵対し、韓遂、楊秋、成宜、侯選、程銀、李堪、張横、梁興、馬玩らあわせて十部隊らと共に兵を挙げ、十万の軍勢を率いて黄河、潼水の地に布陣した。このとき、蘭田の少将劉雄鳴が馬超に従わず、彼に撃破されて曹操のもとへ逃亡している。曹操もまた夏侯淵・曹仁らを率いて潼関にて馬超らと対峙した。緒戦、曹操が黄河の渡河を試みると、馬超は精鋭を率いて船団に猛攻をかけ、曹操の軍勢は混乱し、曹操自身も命を落としかけるほどであった。その後も激しい攻防が続いたが、途中、馬超・韓遂と曹操の間に会談が設けられた。馬超は己の武勇を頼みに会談の場で曹操を捕らえようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった。最後は曹操の臣の賈詡(かく)の離間の策により韓遂と不和になり、曹操に攻撃されて大敗北を喫し、西方の羌族の地に逃れた。この戦役の後、馬超の挙兵の責任を問われ、父の馬騰と一族二百人あまりが皆殺しにあっている。曹操が引き上げようとしたとき、部下の楊阜が、「馬超は韓信・黥布のような武勇を持ち、羌族に心服されているので、警戒を怠ってはなりませぬ」と進言し、曹操ももっともだと答えたが、軍が既に引き上げを開始してしまっていたのでこの言を取り上げなかった。
212年、羌族の兵を集めて再び曹操軍を攻め、涼州刺史の韋康を殺害、冀城を根城にし、同州の他の城を味方につけてみずから軍事総督と称した。さらに救援にやってきた夏侯淵を撃破し、氐族の千万・阿貴らを味方につけてその勢力を盛り返す。しかし、韋康の復讐の為に挙兵した楊阜らの抵抗により冀城を奪われ、漢中の張魯を頼って落ち延びていった。その後張魯に兵を借り、失地回復を試みたが、韋康の旧臣、趙昂とその妻王異の抵抗に遭い勝利は得られなかった。また、張魯配下の楊白らに非難されるなど、張魯陣営での立場も悪化した。そのため、214年、益州の劉璋を攻めていた劉備を頼って行った。劉備は馬超の来降を聞くと、「私は益州を手に入れたぞ」と言って喜び、すぐさま督郵の 李恢を使者として迎えにやった。馬超が劉備に帰順したという噂に恐れをなした劉璋は程なく降伏し、蜀は劉備の手中に入った。このとき馬超は、平西将軍に任じられた。
その後は、彭 羕の劉備に対する讒言と謀反の意を上表したり、漢中攻略に従軍しているものの目だった功績はあげていない。
劉備が漢中王になると左将軍・仮節に昇進し、 221年には驃騎将軍・涼州牧になるが、翌222年、47歳で亡くなり、子の馬承が後を嗣いだ。馬秋は張魯の元に残してきたが、張魯が曹操に降伏すると曹操は改めて張魯に引き渡し、張魯は馬秋を殺した。 また没する間際、馬超は「臣の一門宗族二百人余りは、孟徳めにあらかた誅殺されてしまい、ただ従弟馬岱だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を継承させてください。深く陛下にお託しいたし、もう申し上げることはございません」とも上疏している。
260年、威侯の諡号を送られた。
[編集] 三国志演義
『三国志演義』では、馬騰が曹操暗殺計画に加担していた為、後に謀略によって一族のほとんどを曹操に謀殺されてしまう。唯一馬超と従弟の馬岱が生き残り、共に復讐の為に兵を起こしたとなっている。
復讐戦で馬超は韓遂と連合軍を起こしたが、賈詡の離間の計によりで韓遂と決裂、韓遂は曹操に寝返り、馬超は敗走したと記してある。
また、漢中の張魯の元に身を寄せて、張飛と一騎打ちをしたとも書いてある。この時に馬超は孔明の策によって、玄徳軍に降り、劉璋を脅し、劉璋は援軍が来ない事を悟り、降伏したと記してある。
その後、馬超は五虎大将軍(演義の創作であるが)に任じられているが、 蜀に身を寄せてからの馬超は精彩を欠き、西涼の錦と言われた力は発揮出来なかった。
他に、劉禅即位後に魏の司馬懿が五つの道を使い蜀を攻めようとしたとき、その一つ、北から攻めるはずだった羌族は守備する馬超を恐れて攻め込まなかったという話がある。