郭援
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郭援(かくえん、生年不詳-202年)は、袁紹の武将。また、魏の鍾繇の甥(姉の子)でもあった。
202年、袁尚の命を受けて河東太守となり、袁紹の甥である高幹と共に平陽を攻略した。だが、魏の司隷校尉で叔父でもあった鍾繇の要請を受けた、馬超とその部下の龐悳らの一万余を率いた討伐隊によって、平康で郭援だけが討ち取られ、高幹は捕虜にされて、許された。そして、郭援のその首級は晒らされた。
一説に、龐悳は自ら郭援を斬ったもののそれが郭援とは知らず、他の者が郭援の首を捜している有様だった。後になって、帰陣した龐悳が弓袋から郭援の首級を差し出すと、それを見た郭援の叔父の鍾繇は思わず泣き出した。事情を察した龐悳が「鍾繇どのの甥御とは知らずに、申し訳ありませんでした。」と誠実に心底から謝った。すると鍾繇は「郭援は我が甥とはいえ国賊です。貴公が謝る必要はありません。」と言ったという。