李恢
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李恢(りかい、生年不詳 -231年?)は、三国時代の蜀漢の武将。字は徳昂。子は李遺、甥に李球がいる。
[編集] 略要・人物
益州の建寧郡愈元県の人。若い頃に董和の推薦で劉璋の家臣となり、郡の督郵に任命された。劉璋が劉備を益州に招き容れようとした時、これに強く反対したが聞き入れられなかったため、劉璋を見限って劉備の家臣となった。最初は劉備からこの寝返りを猜疑されたが、張魯と確執関係にあった馬超の説得に成功したため、劉備が蜀を手に入れた後、功曹書佐主簿に任じられた。その後、別駕従事、庲降都督、使持節、交州刺史を兼務するなど、歴任を続けた。
演義では文官タイプの人物として描かれている。だが、実際は劉備の死後、224年、諸葛亮に従って南征に参加し、高定などを大いに破り、これを果敢に処刑するなど大いな功績を挙げている。この功により、安漢将軍・漢興亭侯に封じられた。演義では諸葛亮が孟獲を打ち破った後、反乱が起きていないように描かれているが、実際はその後も反乱は続いたらしい。しかし、その反乱は常に南方平定のために残っていた現地出身の李恢によって全て鎮圧され、その鎮圧時に得た捕虜や物資は全て成都に送られた。このため、蜀漢の国庫は大いに潤ったと言われている。
晩年は建寧郡の太守となったが、やがて官職を辞して引退し、最終的には漢中で病死した。
また、李恢は孟獲・爨習と共に建寧郡の名士として称えられている。